日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

私が学んだ仏法哲学

       すばらしき仏法の教え 



        私が学んだ仏法哲学



一念三千

 一念三千は仏教の極理であり、釈尊(しゃくそん)はこれを本懐(ほんかい)として法華経迹門方便品(ほけきょうしゃくもんほうべんぼん)にいたり「諸法実相」(しょうほうじっそう)に約して、ほぼこれを説いた。ついでに本門寿量品(ほんもんじゅりょうぼん)にいたり因果国(いんが)の三妙に約して仏身(ぶっしん)のふるまいのうえからこれを説いた。これを受けて天台大師(てんだいたいし)は像法時代(ぞうほうじだい)に出現して、摩訶止観(まかしかん)の第五で次のように説いた。

観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)摩訶止観第五に云く「夫(そ)れ一心に十法界(じっぽうかい)を具す一法界(いっぽうかい)に又十法界を具すれば、百法界なり一界に三十種の世間(せけん)を具すれば百法界に即(そく)三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し(もし)心無(なく)んば而巳(やみなん)介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す乃至(ないし)所似(ゆえ)に称して不可思議境と為す意比(こころ)に在り」

[check]十界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏である」(じごく・がき・ちくしょう・しゅら・にん・てん・しょうもん・えんかく、ぼさつ、ほとけ)。
[check]十如(じゅうにょ)とは如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究境等である。(にょぜそう、にょぜしょう、にょぜたい、にょぜりき、にょぜさ、にょぜいん、にょぜえん、にょぜか、にょぜほう、にょぜほんまつくきょうとう)
[check]五陰とは色、受、想、行、識(しき、じゅ、そう、ぎょう、しき)の五であり、陰とは”おおいかくす”の意と”あつまる”の二つの意味がある。”おおいかくす”の意で九界(きゅうかい)に約せば、善法(ぜんぽう)をおおいかくしており、仏界(ぶっかい)に約せば慈悲(じひ)におおわれていることになる。”あつまる”の意味で九界(きゅうかい)に約せば生死のあつまりであり、仏界(ぶっかい)に約せば常楽(じょうらく)があつまっていることになる。
[check]五陰(ごおん)が仮りに和合するのを衆生(しゅじょう)という。十界にはそれぞれの衆生(しゅじょう)がおり、仏界は尊極(そんごく)の衆生である。国土世間とは十界の住する所である。仏は寂光土(じゃっこうど)、菩薩(ぼさつ)は実報土(じっぽうど)、二乗は方便土、天は宮殿、人は大地、地獄は赤鉄に住する等のごときである。

四十四年未顕真実(みけんしんじつ)

 法華経の開経たる無量義経にあり、釈尊が四十二年間説いた教えは方便権経(ほうべんごんきょう)で真実の教えではなく、法華経こそ、いまだかって聞かざるを大法であるという意味。

自受法楽(じじゅほうらく)

  みずから受ける法楽、法の楽しみである。幸福の境涯であり、それは人からもらうのではなく、ぜんぶ、自分自身のこの肉団も中に、仏の生命がある、菩薩の命も、声聞、縁覚の命も、大御本尊を拝むことによって、自分自身の仏の命が湧現する、すなわち幸福をつかむのは、みずからの信心によってつかむということである。

四苦八苦

   四苦は生・老・病・死であり、八苦はさらに愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五陰成苦(ごおんじょうく)がはいる。

色心不二(しきしんふに)

   色とは肉体、心とは心でこの二つは別々のものではなく一体のものである。一体のところに生命の極致がある。御義口伝に「色心不二なるを一極というなり」とある。

以信代慧

   法華経方便品で諸法実相、一念三千の説法を聞き、舎利弗(しゃりほつ)はまず開悟した。智慧第一といわれた舎利弗もまったく仏説を信じてこそ初めて悟ることができたのであり、自分の知恵ではいくら精進し修行に励んでも、ついに悟ることはできなかった。このことを譬喩品(ひゆぼん)には次のようにいっている。
「汝舎利弗すら尚この経に於いては信を以て入る事を得たり、乃至己が智分に非ず」舎利弗尊者すら、なおこのとおりであり、まして末法のわれわれ衆生が自分の知慧をもって悟りうるわけがない。ゆえに日蓮大聖人は「信を以て慧に代う」と次のようにおおせられた。まったく智慧のない迷いの凡夫であっても、信心一途で即身成仏するむねをお示しになっている。
[check]四信五品抄 慧又堪ざれば信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す、不信は一闡堤(いっせんだい)謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり。
[check]法蓮抄 信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り足なくして千里の道を企つるが如し。
[check]当体義抄 日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり。
[check]本因妙抄 信心強盛(しんじんごうじょう)にして唯余念無く(ただよねんなく)南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡即仏身なり。

善知識・悪知識

   自分の周囲の人々の中には善知識と悪知識がある。善知識にあえば善根を積んで幸福になり、成仏することができる。悪知識にあえば幸福を取り逃がし、不幸に陥り地獄に落ちる。
[check]開目抄には「善知識と申すは一向・師にもあらず一向・弟子にもあらずある事なり」と釈せられている。
[check]三三蔵祈雨事 されば仏になる道は善知識にはすぎず、わが智慧なにかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり。
[check]開目抄 久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識にあ値うゆえなり。三千塵点劫、あるいは五百塵点劫の昔に法華経を聴聞したが、権大乗(ごんだいじょう)や小乗を説く悪知識にあって退転し、成仏することができなかったことをおおせられているのである。
[check]次にまた日蓮大聖人は、正法修行者に迫害を加える者を善知識なりとおおせられている。迫害する者は悪知識であるが、そのような悪人があるために [check]正法修行者は、無量の迫害を受けることによって、過去世の罪障を消滅し、この世で仏道を成ずることができるとのおおせである。

衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく)

  寿量品自我偈(じゅりょうぼんじがげ)の一句で「衆生の遊楽する所なり」と読む。御本尊をたもつ衆生が、その功徳により遊楽している姿をいう。
四条金吾殿御返事
[check]「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云。この文自受法楽にあらずや、衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、所とは一閻浮堤(世界)なり日本国は閻浮堤(えんぶだい)の内なり、遊楽とは我らが色心依正(しきしんえしょう)ともに一念三千・自受用身(じじゅゆうしん)の仏にあらずや、法華経(御本尊)を持(たも)ち奉るより外に遊楽(ゆうらく)はなし。と日蓮大聖人はおおせられている。

生死即涅槃(しょうじそくねはん) 

   生死ちは迷いであり、涅槃とは悟りをいう。また、煩悩即菩提ともいう。

正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)

   法華経方便品(ほけきょうほうべんぼん)第二の文、法華経以外の諸経を廃捨することをいう。釈尊が説く真実の教えは一つであることを述べている。

四恩

   一に父母の恩、二に衆生の恩、三に国王の恩、四に三宝の恩。

自界叛逆(じかいほんぎゃく) 同士打ち、内乱をいう。七難のうちの一.

不軽菩薩(ふぎょうぼさつ)

   法華経の不軽品ダ第二十に説かれている。過去世
に威音王仏(いおんのうぶつ)という仏がいた。この仏の滅後像法年間に常(じょう)不軽菩薩という菩薩がいて、 [check]「我深く汝等を敬う、敢()あえ)て軽慢(きようまん)せず、所以(ゆえん)は何(いか)ん、汝等皆菩薩の道を行じて当(まさ)に作仏することを得(う)べし」といって、いっさいの人々をことごとく礼拝(らいはい)していた。時に国中に謗法者(ほうぼうしゃ)が充満しており、不軽菩薩をみてこれを迫害した。しかしいかなる迫害にも屈することなく不軽菩薩はもっぱらただ礼拝し仏身を成就することを得たが、 [check]不軽を軽賎(けいせん)した者はその罪によって千劫阿鼻地獄におちて大苦悩を受け、この罪をおえ巳(おわ)って、また不軽菩薩の教化(きょうげ)を受けることができた。

福過十号(ふくかじゅうごう)

   妙楽大師が、文句記に「供養する有らん者は福十号に過ぐ」
法華経、すなわち、末法(まっぽう)に日蓮大聖人の仏法を信ずる者の功徳を賛嘆している。十号とは、仏の十種の尊称で「如来・応供・正徧知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊」であり、舎利弗や、迦葉等の声聞は、法華経の迹門に未来の成仏を許されてこの十号を授けられた。このような十号を具足した仏を供養するよりも、末代の法華経の行者を供養する功徳は優れているのである。

法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を。

法華経を持ち信ずれども、誠に色心相応の信者、能持此経の行者はまれなり。

法華経を持(たも)ち奉る処を当詣(とうけい)道場と云うなり。此を去って彼に行くには非ざるなり。

法華経を持ち奉るを以て一切の孝養の最頂とせり。

法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず八熱地獄の大火にも焼けず。

法華経を持つ人は男ならば何(いか)なる田夫(でんぷ)にても候へ。三界(さんがい)の主たる大梵天王(だいぼんてんのう)・釈提桓因(しゃくだいかんにん)・四大天王・転輪聖王(てんりんじょうおう)乃至漢土・日本の国主等にも勝(すぐ)れたり。何(いか)に況(いわん)や日本国の大臣・公卿・源平の侍、百姓等に勝れたる事申すに及ばず。女人ならば憍尸迦女(きょうしかにょ)・吉祥天女(きちじょうてんにょ)・漢の李夫人・楊貴妃(ようきひ)等の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候。

法華経を経のごとく持(たも)つ人人も、法華経の行者を或は貪・瞋(とん)・瞋(じん)・癡(ち)により、或は世間の事により、或いはしなじなの振舞によって憎む人あり。 [check]此は法華経を信ずれども功徳なし。かへりて罰をかほるなり。

法華経を謗(ぼう)じて地獄に堕つる者は大地微塵(みじん)よりも多く、信じて仏になる者は爪の上の土よりも少なし。

法華経をもっていのらむ祈りは必ず祈りとなるべし。

法華経を以て国土を祈らば、上一人より下万民に至るまで悉(ことごと)く悦び栄へ給うべき鎮護国家の大百法なり。

法華折伏(ほっけしゃくぶく)、破権門理(はごんもんり)の金言なれば終(つい)に権教権門(ごんきょうごんもん)の輩を一人もなくせめおとして法王の家人となし天下万民諸乗一仏乗と成って妙法独り繁盛せん時、 [check]万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨壌(あめつちくれ)を砕かず。代は義農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ。現世安穏(げんぜあんのん)の証文疑い有る可からざる者なり。

法華の心に背きぬれば十方の仏の命を失う罪なり。此のおきてに背くを謗法(ほうぼう)の者とは申すなり。

法華の行者は男女共に如来なり。煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)・生死即涅槃(しょうじそくねはん)なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は与如来共宿(よにょらいぐしゅく)の者なり。

法華・涅槃の経教は、一代五時の肝心なり。

法華経の心は一念三千、性悪性善妙覚の位に猶備われり。元品の法性(がんぽんのほっしょう)は梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)等と顕れ、元品の無明(むみょう)は第六天の魔王と顕れたり。

法華の心を信ずるは種なり。諸法実相の内証に入れば仏果を成ずるなり。

「讃むる者は福を安明に積み、謗(そし)る者は罪を無限に開く」

本心を失うとは謗法(ほうぼう)なり。本心とは下種なり、不失とは法華経の行者なり、失とは本有る物をを失うことなり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは本心を失わざるなり。

煩悩の汚泥の中に真如の仏あり我等衆生の事なり

誠に生死を恐れ涅槃を欣(ねが)い信心を運び渇仰(かつごう)を至さば遷滅無常(せんめつむじょう)は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつつなるべし。只南無妙法蓮華経とだにも唱え奉らば、滅せぬ罪やあるべき、来らぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり、甚深なり、是を信受すべし。

誠に我が身貧にして布施すべき宝なくば我が身命(しんみょう)を捨て、仏法を得べき便(たより)あらば身命を捨てて仏法を学すべし。

[check]当(まさ)に知るべし、日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり。

「末代悪世に法華経を弘通するものを悪口罵り等せん人は、我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべし」

末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答えて云(いわ)く、法華経の題目を以て本尊とすべし。

末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚痴のかしこさは、いかなる賢人聖人も治めがたき事なり。

末代の悪人等の成仏・不成仏は罪の軽重によらず、但此経の信不信に任す可のみ。

末代の法華経の行者を供養するは十号を具足しまします如来、を供養したてまつるにもその功徳すぎたり。又濁世に法華経の行者あらんを留難をなさん人は頭(こうべ)七分にわる(破)べし。

末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん。此れ第一の孝養なり。

末代の凡夫出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足する故なり。

末法当世の有智・無智・在家・出家・上下万人此の妙法蓮華経を持(たも)って説の如く修行せんに、豈(あに)仏果を得ざらんや。

末法に入って今日蓮が唱る所の題目は前代に異り、自行化他(じぎょうけた)に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり。

末法に入っては仏をみるとは寿量品の釈尊、法を聞くとは南無妙法蓮華経なり。

末法に入って仏法を謗じ無間地獄に堕つべきものは大地微塵(みじん)よりも多く、正法をへたらん人は爪上(そうじょう)の土よりもすくなし。

[check]末法に入って、法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。若し然れば貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり。宝塔又南無妙法蓮華経なり。

[check]末法に入りぬれば自然(じねん)に悪鬼は国中に充満せり。瓦石(がしゃく)草木の並び滋(しげき)がごとし。善鬼は天下に少し。聖賢まれなる故なり。此の疫病は念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも、日蓮が方にこそ多くやみ死ぬべきにて候か。いかにとして候やらん。 [check]彼等よりもすくなくやみ、すくなく死に候は不思議にをぼへ候。人の少なき故か。又御信心の強盛なるか。

末法に於いて今日蓮等の類いの修行は、妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得(こころう)可(べき)なり。

[check]末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女きらふべからず、皆地涌(じゆ)の菩薩の出現に非ずんば唱えがたき題目なり。

末法に摂受(しょうじゅ)・折伏(しゃくぶく)あるべし。所謂悪国・破法の両国あるべきゆえなり。日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし。

末法の正法とは南無妙法蓮華経なり。此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり。正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ。

末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり、法とは題目なり、僧とは我等行者なり。仏とも云われ、又凡夫僧とも云わるるなり。

眼(まなこ)には五あり。所謂肉眼(にくげん)・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり。

眼(まなこ)の功徳とは、法華不信の者は無間に堕在し、信ずる者は成仏なりと見るを以て眼の功徳とするなり、法華経を持(たも)ち奉る処に眼の八百の功徳を得るなり。眼とは法華経なり。此の大乗経典は諸仏の眼目(げんもく)と。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る者は眼の功徳を得るなり云云。耳鼻舌身意又又此(か)くの如きなり。

水すめば月うつる、風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし。信の弱きは濁るがごとし。信心のいさぎよきは澄めるがごとし。

水の如きの行者と申すは、水は昼夜不退に流るるなり、少しもやむ事なし。其の如く法華経を信ずるを水の行者とはいうなり。

皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよはく、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。

妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがえる義なり。

下種とはたねを下すなり。種子とは成仏の種の事なり。

外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。師子身中の虫の師子を食む等云云。大果報の人をば他の敵やぶりがたし、親しみより破るべし。

下劣の者為(た)りと雖も、我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。

[check]結句は此の国他国より責められ、自国どし打ちして、此の国変じて無間地獄と成るべし。日蓮此の大なる失(とが)を兼ねて見し故に、与同罪の失を脱(のが)れんが為、仏の呵責(かしゃく)を思う故に、智恩報恩の為国の恩を報ぜんと思いて、国主並びに一切衆生(いっさいしゅじょう)に告げ知らしめなり。

仏法を修行せんには人の言を用う可らず。只仰いで仏の金言をまほるべきなり。

仏法を習わん人、後世をねがわん人は誹謗をおそるべし。

仏法を学すれども、或いはわが心のをろかなるにより、或いはたとひ知恵はかしこきやうなれども師によりて我が心の曲がるをしらず。仏教を直しく習ひうる事かたし。たとひ明師並びに実経に値(あ)い奉りて正法を得たる人なれども、生死をいで仏にならむとする時には、かならず影の身にそうがごとく、雨に雲のあるがごとく、三障四魔と申して七(ななつ)の大事出現す。

仏法を壊乱するは仏法中の怨(あだ)なり。慈(じ)無くして詐(いつわ)り親しむは是れ彼が怨なり。能(よ)く糾治(きゅうじ)せんものは是れ護法の声聞(しょうもん)、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり。能く呵責(かしゃく)する者は是れ我が弟子なり。駈遣(くけん)せざらん者は仏法中の怨(あだ)なり。

仏法は時によるべし。日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず。後生には大楽をうくべければ大いに喜ばし。

[check]仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり。

仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏時によるべし。譬(たと)えば世間の文武二道の如し。

仏法は強(あなが)ちに人の貴賎にはよるべからず。只経文を先とすべし。身の賤(いや)しきをもって其の法を軽んずる事なかれ。

仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり

仏法には賢(かしこげ)なる様なる人なれども、時に依り

機に依り国に依り先後の弘通(ぐずう)に依る事を弁(わきま)へざれば、身心を苦しめて修行すれども験(しるし)なき事なり。

[check]信心の血脈(けちみゃく)なくんば法華経をた持(たも)つとも無益(むやく)なり。

[check]人身は受けがたくして破れやすし。過去遠遠劫(かこおんのんごう)より由なき事には失いしかども、法華経のために命を捨てたる事はなし。

人身は受けがたし、爪の上の土。人身は持(たも)ちがたし、草の上の露。百二十まで持ちて名を腐(くた)して死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。

[check]身とは色法、命とは心法なり。事理の不惜身命之れあり。法華の行者田畠等を奪わるは理の不惜身命なり。命根を断たるを事の不惜身命と云うなり。今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は事理共に値(あ)うなり。

[check]身とは色法、命とは心法なり。事理の不惜身命之れあり。法華の行者田畠等を奪わるは理の不惜身命なり。命根を断たるを事の不惜身命と云うなり。今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は事理共に値(あ)うなり。

鹿を吠うる犬は頭(こうべ)われず師子を吠(ほ)うる犬は腸(はらわた)くさる。日月(にちがつ)をのむ修羅(しゅら)は頭七分にわれ、仏を打ちし堤婆(だいば)は大地われて入りにき。

三千世界に満つる珍宝なれども命に替る事はなし。

賛する者は福を安明(あんみよう)に積み、謗ずる者は無間に開く。

[check]在在諸の仏土に常に師と俱に生ぜん。

[check]この曼荼羅を身にたもちぬれば王を武士のまほるがごとく子をおやの愛するがごとく魚の水をたのむがごとく草木の雨を楽(ねが)うがごとく鳥の木をたのむがごとく一切の仏神等の集まりまほり昼夜に影のごとくまほらせ給う法にて候。

auto_4WfvjS.gif矢印点滅.gif 宗教の五網について 第一巻 立正安国論講義 池田大作著より。

auto_4WfvjS.gif矢印点滅.gif 立正安国論講義 日蓮大聖人御書十大部第一号 池田大作著

auto_4WfvjS.gif矢印点滅.gif 寿量品 池田名誉会長講義 聖教新聞社

auto_4WfvjS.gif矢印点滅.gif 講演集下戸田城聖創価学会第2代会長 無作為に抜粋 


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