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私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

仏法で説く幸福論

       すばらしき仏法の教え 



仏法で説く幸福論

「立正安國論講義」 日蓮大聖人・御書十大部第一巻 池田大作著より、一部分を抜粋させて頂きました。


講義

一般に人々が求める幸福といっても、その意味するところは、実に千差万別である。卑近な例から考えてみよう。空腹の極にあった人が、おいしい食事によって満腹した場合、それを食べることと食事後の満腹感に、いわゆる幸福を感ずるであろう。しかし、この幸福は、二時間、三時間たつと消えてしまい、五時間もたてば、再び空腹の不幸に陥ってしまう。家が欲しいとか、宝石が欲しいとかの欲望も、それを満たされた当座の幸福感は、いかに大きくとも、月日の経過とともに薄れてしまうものである。しかも、いったん、火災にあって家が焼けてしまったとか、宝石が盗まれてしまったとなると、逆に大きい不幸を感じないではいられなくなる。したがって、これらの幸福は、きわめて相対的である。相対的であるがゆえに、はかなく消えていくものである。そこに、絶対的の幸福を樹立しようとする宗教の根本目的がある。だが、真実の仏法が説くところと、仏教に名を借りて、勝手につくられた諸仏教、あるいはキリスト教等の諸宗教が説くところとは、本質的な相違がある。
すなわち、前者は人間生命の奥底の真理に立ち、そこに確立された絶対的幸福が、具体的生活のすべての場面をとおして実証されるという、哲学性、合理性、実証的科学性に立っている。これに対して、後者は、哲学的な合理性の裏づけを否定して、むしろ非合理性を主張する。そして、修行の結果として会得されるという彼らの悟りの境涯は、なんら現実世界における実証性をもたない。また、たとえあっても、きわめて生活とは関係のない、一般性もない、特殊で非常識な、いわゆる奇跡と称するものにすぎない。それでは、仏法の生命哲学とは、いかなるものか。また、幸・不幸をどのように説いているのか。また、絶対的幸福とは等々についてみてみよう。これらを最もわかりやすく説いているのが、十界論である。十界とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏をいう。

観心本尊抄(241ページ)にいわく、
  「数(しばし)ば地面を見るに或時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平に或時は貪(むさぼ)り現じ或時は癡(おろか)現じ或時は諂曲(てんごく)なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・は畜生・諂曲なるは修羅(しゅら)・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於いては六道共に之れ有り四聖は冥伏(みょうぶく)して現われざれども委細に之を尋ねば之有る可し」云々と。

これ、地獄といい餓鬼といい、あるいは仏というも、われら人間生命の種々相にほかならぬとの、偉大な哲理を並べておられるのである。

地獄とは、詳しくは顕謗法抄(けんほうぼうしょう)に八大地獄が説かれているように、苦悩、煩悶(はんもん)する境涯(きょうがい)である。「瞋(いか)る)は地獄」と申されているのは、瞋りは修羅闘諍(しゅらとうじょう)にも通ずるが、その結果、生活を破壊し苦悩に陥るがゆえである。日常の肉体的、精神的苦悩から、端的な例をいえば、ナチスの弾圧を受けたユダヤ人や、今日の戦乱に明けくれるベトナムの民衆に至るまで、すべて地獄界といえよう。

餓鬼とは、 貪欲(どんよく)によって支配された状態で、満足することを知らないこと。

畜生 とは、十法界明因果抄(じゅっぽうかいみょういんが)(430ページ)に「愚痴無慙(ぐちむざん)にして、徒(いたずら)に信施(しんせ)の他物を受けて之を償わざる者此の報いを受く」とあるように、愚かで目先の利害にとらわれるあまり、遠大な根本を忘れること、またこれを慙(は)じようとせぬことといえよう。

修羅 とは他人よりも勝ろうとし、自分一人が偉いように思うこと。止観にいわく、「若し其の心、念念に常に彼に勝らんことを欲し耐えざれば人を下し他を軽しめ己を珍(たっと)ぶこと鵄(とび)の高く飛びて下視(みおろす)が如し而も外には、仁・義・礼・智・信を掲げて下品(げぼん)の善心を起し阿修羅の道を行ずるなり」と。この勝他の念ゆえに、いわゆる修羅闘諍というように、争いの姿となって現れる。「諂曲(てんごく)なるは修羅」とは、心がひねくれていることで、他人の好意を好意ととれず、冷酷で悪賢い生命を意味する。
以上の地獄・餓鬼・畜生を三悪道、修羅を加えて四悪道という。

次に、人界とは、いわゆる平らかな状態で、人間としてごく普通の平穏な生命の境涯である。今日、この状態がどういう立場の人にとっても、むしろ稀(まれ)で多くは三悪道、四悪道に陥っている事実は、まことに悲しむべきである。

天界とは、欲しい物が手にはいったとか、自分の願いがかなったとかの満足感によって喜びを感ずる状態である。だが、その喜びは一時的であり、狭い分野におけるものであるから「五衰(ごすい)を受く」と説かれているごとく、時の経過とともに薄らぎ、他の条件の変化と共にあえなく崩れ去ってしまうものである。
  四悪道に人天の二道を加えて六道といい、大部分の人間の生活は、この六道を繰り返しているにすぎない。これを六道輪廻という。それに対して、努力と精進、研究によって得られる、より深く、より高く、より長い幸福境涯がある。それが声聞・縁覚・菩薩・仏で、三悪道や四悪道に対して四聖という。

声聞(しょうもん)とは、書物を読み、先輩の築いた業績を学び取って、知識を豊かにした時に感ずる喜び、力の充足感である。

縁覚とは、みずから思索し、試行錯誤し、あるいはある自然の現象を見て、求めていた真理の一端を得たときに感ずる喜びである。アインシュタインの相対性理論、ニュートンの万有引力説、ガリレオの振子理論、湯川博士の中間子理論、朝永博士のくりこみ理論等、合理精神の典型というべき自然科学に」おける偉大な発見が、多くは非論理的な一瞬の悟りによってなされていることは、きわめて興味深いものがある。だが、そこに至るまでに、着実な基礎の積み重ねと、深い思索があったことは論をまたない。芸術家の創作活動も、縁覚界の代表例である。

菩薩とは自己の特性を発揮して、社会のために尽くす働きである。仏教典に出てくる勇勢菩薩(ゆぜぼさつ)は勇気、文殊(もんじゅ)は知恵、弥勒(みろく)は慈悲をそれぞれ徳性とする働きの象徴化である。

さて、最後の仏界とは、生命の永遠性を悟り、宇宙即我(うちゅうそくわれ)、我即宇宙の境涯に立って、一切を見て誤りなく、無限の生命力をもって人生を生きていくことである。それは、永遠の生命観に立つがゆえに、時間的に変化を受けることなく、宇宙即我の境涯のゆえに空間的に左右されることもない、絶対の幸福境涯である。この自我の確立を基盤として、誤りなく現実の諸問題に対処し、いかなる難問も、強い生命力をもって乗り越え、打ち破っていくことができるのである。

また非ロシア諸民族に対する粛清も凄惨であった。1938年にウクライナ共産党の第1書記官になったフルシチョフによって、ウクライナの大粛清が行われた。またポーランドの共産主義者はほとんど全部銃殺、または投獄された。その他ユダヤ人等の他民族の粛清も行われた。そして、「エジョフシチナ」の最後の犠牲者は、ほかならぬエジョフ自身であった。エジョフは1939年ポストを追われ、姿を消してしまった。その年の党大会で、スターリンは、もう大量粛清はやらないといった。しかし、全体主義体制の重苦しい空気、恐怖の世界は続いた。第2次世界大戦がはじまり、ソ連国民は、まる4年間、ドイツとの戦争で渾身の力をふりしぼり、ようやく戦争に勝つことができた。だが、その後に待ちうけていたものは、またまたスターリンの圧政であった。再び国民の生殺与奪の権利は、スターリンに握られ、べリヤの秘密警察は、おびただしい血の粛清をやってのけた。「ベリヤ警察はいつでも未明に訪れて、ドアをノックし、不幸な人を有無を言わさず連行していった。それっきり、その人の消息は杳(よう)としてわからない。ソ連国民はたえず未明のノックにおびえながら、見ざる、いわざる、聞かざるの生活を送らねばならなかった。これらの事実を知って、われわれは、その冷酷、残忍なのに驚くよりも怒りを催す。だが、その底流に、生命を、物質の存在様式に過ぎぬとしか見ない。低級なる唯物論の生命観があったことを指摘せざるをえない。

人生の究極目的は、この仏界の生命の湧現(ゆげん)、すなわち一生成仏にある。その方法は、道徳的な精神修養でもなければ、人間らしい欲望を無理に抑圧する戒律をたもつことでもない。ただ仏界の生命の当体である。三大秘宝の大御本尊に境智冥合(きょうちみょうごう)することによって、われらの生命の内奥(ないおう)より湧然(ゆうぜん)とあらわれるのである。すなわち、日蓮大聖人が、出世(しゅっせ)の本懐(ほんかい)として、弘安二年十月十二日に御図顕あそばされた、一閻浮堤総与(いちえんぶだいそうよ)の大御本尊に帰命(きみょう)し、自行化他(じぎょうけた)にわたる南無妙法蓮華経を唱えきっていくことに尽きるのである。また、この立正安国論において叫ばれている王仏冥合の大理想達成へ、身命を捧げて邁進することが、一生成仏への直道(じきどう)であることを断言してやまない。

現世利益(げんせりやく)とは、

いいかえれば現実生活における幸福である。しかして、人間生活を詳細に分析してみるならば、その内容はすべて、 [check]幸福生活を求めて向上しようとするたゆまざる価値創造であることは明瞭である。大きくは、人類がここまで発展してきたことも、幸福を求め営々として築いてきた、何千年来の人々の努力と汗の結晶にほかならない。すなわち、「現世利益」(幸福生活)を求めるのは、人間のあまりにも自然な心情である。これを否定し、認めぬことは、人間の本性を否定し、滅却するものであり、必ず矛盾にぶつかり、混乱を生じていくのである。古来、幾多の思想家、哲学者が、人間生活における幸福の問題と真剣に取り組み、この解明にいかに心をくだいてきたことか。もし、幸福を追求することを低俗だと軽蔑して、生活に関係なき空理空論をもてあそぶとすれば、それは観念論も甚だしい。のみならず、これらの古今の哲人、思想家をことごとく低俗なりと否定し去らなければならないであろう。いわんや仏法は最高の生活法である。単なる空想の哲学でもなければ、未来に事寄せて、現実をあきらめさせうような、弱々しい哲学ではない。事実、人々の心中に力強い生命力をわきたたせ、現実生活を打開する、たくましい実践力、生活力を奮い起す大宗教である。

仏教=現世利益否定と公式化して覚えていることは、あまりにも愚直であり、仏法の何たるかを知らぬことから起こるのである。これまで既成宗教は、往々にして仏教は現世利益を否定している教えのあるかのごとく、人々に鼓吹(こすい)してきた。だが、これこそ、彼らの宗教がいかに無力であるかを証明するものではないか。むろん、仏法の説くところが、すべて現世利益をめざすものであるとするのは、間違いである。これらの利益(りやく)は、大利益からみればわずかな部分にすぎない。だが、現実の祈りの叶わぬようで力なき宗教で、どうして未来永遠の幸福が得られようか。一丈の堀を越えられぬものが、なんで十丈、二十丈の堀を超えられようか。いたずらに精神界のことのみを説くのが宗教であり、現実の生活を汚れたものとして、そこからの逃避や、超越を説いて、宗教を美化して、それがあたかも深遠で高邁な教えであるかのごとく装うのは、民衆を欺瞞するも甚だしいといわなければならない。
もし、創価学会を、現世利益を説くからといって非難するならば、汝自身の生活は、仙人のごとく霞を食い、いっさいの欲望を断絶しているのかと聞きたい、もし、かかる人間が存在するとすれば精神分裂症か、二重人格の偽善者であると断絶せざるをえない。ましてや、知識人ぶり、したり顔をして、庶民の素朴な感情を愚弄するのは、あまりにも傲慢ではないか。やがて世の中の人々から見放され、忘れ去られる存在となることは絶対である。

現世の幸福は永遠の実証

現世利益は、なにも創価学会の発明でもなければ、新説でもない。仏法の最高哲理では当然のこととして説かれている。遠くは釈尊も法華経において、近くは日蓮大聖人もまた、大確信をもって諸御書に現世の利益を断言しておられる。

法華経の第五の薬草喩品(やくそうゆほん)にいわく「是(こ)の諸々の衆生、是の法を聞きおわって現世安穏にして後に善処(ぜんしょ)に生じ、道を以って楽を受け、亦(また)法を聞くことを得」と。

いうまでもなく、この世において、仏法を正しく信ずることによって、現実の生活が幸福になり、安定しきった平和な生活を営むことができる。また、未来においても、幸福境涯で生まれてきて、生死(しょうじ)ともに、三世にわたる永遠の生命のうえから、変わらない幸福生活を送ることができるという文証(もんしょう)である。
また、日蓮大聖人の御書を拝しても、現世における大功徳を、厳然と説かれているのである。

選時抄(御書291ページ)にいわく、

「法華経の八の巻に云く『若(も)し後の世に於いて是の経典を受時し読誦(どくじゅ)せん者は乃至(ないし)諸願虚(むなし)からず、亦(また)現世に於て其の福報(ふくほう)を得ん』又云く『若し之(これ)を供養(くよう)し讃歓(さんたん)すること有らん者は当に今世に於て現の果報(かほう)を得し』等云云。この二つの文の中に亦於現世(やくおげんせ)・得其福報(とくごふくほう)の八字・己上(いじょう)十六字の文むなしくして日蓮今世に大果報なくば如来の金言は堤婆(だいば)が虚言(そらごと)に同じく多宝(たほう)の証明は倶伽利(くぎゃり)が妄語(もうご)に異ならじ、謗法(ほうぼう)の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世の諸仏もましまさざるか、されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命も惜しまず修行して此の度(たび)仏法を心みよ」と。

この文は、明らかに、法華経の経文を引いて、現世の大功徳を説き明かされた文である。われわれ大御本尊を拝するものは、その指導どおりに正しく信心をしきっていったならば、現実の生活のうえに功徳が出ないわけがないとの御断言であり、そうでなければ、仏法はすべて虚妄(こもう)であるとの、きびしい仰せなのである。その現実の証拠を無視しての仏法はありえないし、それを肯定し、断言しえないような力弱き宗教ではないのである。「現世に云いおくことの違わざるを見て、未来を推せよ」と仰せられているごとく、仏法は道理であり、因果の法則のきびしき哲理である。

「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」と。

このたくましい生活指導の大原理こそ、日蓮大聖人の仏法であり、そこに偉大なる人間革命、宿命打開(しゅくめいだかい)の道が示されているのである。創価学会は、この仏法の原理を正しく実践しているのにほかならない。今日、五百数十万世帯(当時、現在は八百万を超えている)、一千数百万の人々が、御本尊の功徳をあらゆる分野にわたって、現実の生活のうえに立証していることは、実に偉大なことではないか。歓喜に燃えて、功徳を感じている学会員の姿を見よ。病床に伏していた者が、元気に職場に復帰し、家庭不和に悩んだ一家が、だんらんの笑い声の絶えない家庭に改革され、和楽(わらく)の生活を送っている事実を、誰が否定できようか。これ大御本尊の功徳といわずして何であろうか。かつまた大聖人は [check]「近き現証を引いて遠き信をとるべし」と仰せられている。されば、この現実の証拠を見て、大御本尊を信じた人々は、必ずや、大聖人が成仏の境涯として説かれた、永遠にして不滅の幸福境涯を会得できることを強く強く確信すべきである。

世皆正(よみなしょう)に背(そむ)き人悉く(ことごとく)悪に帰(き)す、、、言わずんばある可(べ)からず恐れずんばある可からず」

この御文は、個人の不幸も、国土の三災七難もその根本原因は、邪宗邪義にあるとの仰せである。これは世間の人の予想だにもしなかった驚天動地(きょうてんどうち)のことであり、、この獅子吼(ししく)ひとたび響いて、惰眠をむさぼっていた当時の宗教界はさぞやあわてふためいたことであろう。また邪宗邪義に迷わされた人々の驚愕もひとかたならぬものであったろう。さればそれはたちまちにして嫉妬(しっと)、激怒(げきど)に変わり、三類の強敵(ごうてき)のアラシとなってあらわれたのである。この彼らの周章狼狽(しゅうしょうろうばい)自体、おのれの本質がものの見事に見破られたことを示すものではないか。

開目抄にいわく「此れを知れる者は但日蓮一人なり」と誰もが無関心であり、誰もが無智であった宗教の正邪、善悪の分別こそ、幸・不幸の決定線であり、これを大聖人ひとり知られたのであると。のみならず、日本の国から、また、この地球上から悲惨の二字を除き、幸福と繁栄とをもたらすのは、御自身以外ないのであると。またいわく「詮ずる所は天もすて給え諸難にもあえ身命を期(ご)とせん、、、、大願を立てん日本国の位をゆずらむ、法華経をすてて観経等について後生(ごしょう)を期(ご)せよ、父母の頸を刎ねん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来(しゅったい)すとも智者にやぶられずば用(もち)いじとなり、其の外の大難・風の前の塵(ちり)なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等ちかいし願いやぶるべがらず」(御書232ページ)

この巌(いわお)のごとき民衆救済の大確信、全民衆を苦悩の底より救い出さんとの大慈悲、「智者に我義やぶられずば用(もち)いじとなり」との大信念、これこそ大聖人の立証安国の精神であり、創価学会に一貫して流れる根本精神である。日本の国に真にエゴイズムを捨て、苦に没在(もつざい)せる民衆の幸福のため、また世界の平和のために一人立つ指導者がいるであろうか。もし、真実に、その心あり、日本の前途、世界の前途を憂うるならば、この日蓮大聖人の思想に耳を傾けるべきである。検討もせずして批判するのは、指導者の名に恥ずるではないか。

生活とは生命活動の発露

人間生活を虚心にながめてみれば、それがことごとく幸福を求めての生活であることは前述のとおりであるが、それでは、その幸・不幸が宗教のいかんによって決まるとはいかなるわけか。
それには、人間の生活そのものの検討がなされなければならない。結論からいえば、生活とは、生命活動のあらわれたる現実である。すなわち、瞬間瞬間の生命活動の発露である。しかして、この生命の奥底(おうてい)を支配するものが思想であり、哲学であり、宗教なのである。先に人間の生命活動を、十種類の範疇(はんちゅう)をもって説き明かした。いうまでもなく十界論である。地獄は苦悩・煩悶(はんもん)の生命活動、餓鬼(がき)界はむさぼりの生命活動、畜生界は、動物にみられるような弱肉強食であり、本能のままの生命活動、修羅(しゅら)界は勝他(しょうた)の念による闘諍(とうじょう)の生命活動、人界(にんかい)は平らかな、あたりまえの生命活動、天界は喜び、声聞(しょうもん)は理論、真理を追究(ついきゅう)していくときなどの生命活動、縁覚(えんかく)界は、名音楽などを聞いてうっとりし、あるいはまたピアニストがピアノを弾くことに専念し、それに徹して、一分(いちぶん)の悟りを開く生命活動、菩薩(ぼさつ)界は、人を利益していこうとするところの慈愛の生命活動である。そして十番目の仏界(ぶっかい)とは、言葉をもって説明しがたいが、あえていえば、なにものにもくずされない絶対の幸福境、すなわち大宇宙のリズムと合致し、なんら障害のない自在の生命活動である。そして、この地獄界から仏界までの生命活動は、誰人といえどもこれを有している。怒る生命活動の欠けた人もいなければ、喜びの生命活動のまったくないひともいない。苦しむことをしない人もいない。それは万人共通の、本然の生命活動である。しかも、これらの生命活動は、ことごとく縁にふれてあらわれてくることも、すでに明らかにしたごとくである。

人間生活への思想・宗教の影響

邪悪な思想、低級な哲学、したがって、誤れる人生観、社会観をもとにした生活をすれば、自己の生命は、地獄、餓鬼、畜生の三悪道、また修羅界を加えた四悪道のみ旺盛になり、貧(とん・むさぼり)・瞋(じん・いかり)・癡(ち・おろか)の充満するところとなる。それは、さらに生命にもはやぬぐいさりがたい濁りを生じ、一定の癖をもつようになる。濁り、癖をもった生命は、もはや宇宙のリズムと調和せず、生命力は極度に弱まり、宇宙の種々の事態に応じえず、生きることすら苦しくなり、不幸の巷(ちまた)を流転してゆくのである。また、生命の濁りは偏狭なる人格を形成し、それらの偏狭な人格の人のみ多くなれば、衆生社会が濁り、そこに誕生する偏狭なる指導者は、狂気のごとく、国の前途を誤らせ、世界を混乱に導くのである。これ、人間生命活動の動機ともなり、また、生命内奥(ないおう)の世界を揺り動かし、支配し、リードしていくべき思想が、邪悪であり、低級であり、奸智(かんち)にたけたものであり、また偏狭であるからにほかならない。
なかんずく、宗教の影響は、甚大である。もしも誤れる宗教であれば、知らず知らずのうちに人の生命をむしばんでいく、信仰という関係力によって、思想にあらわれた、あるいは本尊等の対境ににじみ出ている生命の波動が、強くわれわれの生命に伝えられるからである。われわれは、現実に低級宗教(偏狭なる思想も含まれる)の害毒にむしばまれた人々の生活の無気力な姿、あるいはなにかにとりつかれたような気違いじみた姿、二重人格、畜生道、餓鬼道、また悲惨の二字そのものの地獄界の姿、残忍極まりなき修羅葛藤の姿を眼前にし、あまりにも宗教が生活に影響することの絶大さを知って慄然とするのである。ともに、日蓮大聖人の指摘に寸分の狂いもないことを知り驚嘆もし、その指導原理の万古不変なるを確信するものである。誤れる思想、宗教がいかに恐ろしいか、西欧におけるキリスト教の例、ソビエトの共産主義、ナチの人種論、インド、中近東、東南アジアの宗教、最後に日本の宗教について既観してみたい。

西欧におけるキリスト教の影響

西欧のキリスト教の歴史をみても、いかに思想、宗教の影響が大きいかがわかる。キリスト教は西紀三一三年、ローマ皇帝によって公認され、三九二年に国教となって以来、不動の地位を築き、欧州世界に君臨するようになる。そして、やがて中世においては、教会の権限は絶対化され、国王すら法王にぬかずくにいたる。いっさいの学問は神学の下僕であり、すべて神学で説明され、神学に合わない理論は、神への反逆であり、異端とされた。もはや、キリスト教は西欧人の心であり、唯一絶対の思想であった。法王がイスラム教徒に奪われた聖地の奪還を指令するや、人々は熱狂的に十字軍に従軍し、遠征におもむいた。さらに、ルネサンス期を迎え、キリスト教の権威から脱皮しようとする人々があらわれ始めたときに、どれほど既成の権威、宗教的ドグマがそれらの人々の心に重々しくのしかかっていったことか。教会の権威を脅かすと目された科学者たちは「無神論者」とか「魔術師」「マホメット教徒」とののしられ、迫害された。ジョルダーノ・ブルーノは焚刑(ふんけい)に処せられ、六十八歳の老齢のガリレオ・ガリレイは、審問所に引きずり出され、焚刑か、さもなくば地動説を捨てよと二者択一を迫られた。なんと思想、哲学、宗教の誤りは、恐ろしいことか。やがて、教会の腐敗、堕落に対し、幾多の宗教改革が試みられ、特にドイツのマルチン・ルター、スイスのジョン・カルバンの影響は大きく、多くの新教国が誕生するにいたる。以来、新旧の対立は、凄惨(せいさん)をきわめた。フランスにては、一五七二年の聖バーソロミューの虐殺(ぎゃくさつ)で、約五万人のユグノー教徒(十六-一七世紀のフランス新教徒)が惨殺(ざんさつ)された。また一六一八年から四十八年にかけて、ドイツを舞台として、大宗教戦争といわれる三十年戦争が行われた。これは、ドイツの新旧教徒の争いに、デンマーク、スウェーデン、フランス等が参戦し、全ヨーロッパ的な長期の戦争となったものである。この戦乱によって、ドイツは殺戮(さつりく)と疫病の巷(ちまた)と化し、当時のドイツ人口は千八百万から、実に半分以下の七百万に激減(げきげん)してしまったといわれる。こうして、キリスト教の権威は失墜(しっつい)し、人々の心はしだいにキリスト教から離れていった。だが、いったん人人の心をとらえた思想が、そう簡単に抜け切れるものではない。十八世紀の終わりにいたってすら、ジェンナーの種痘の発見が、キリスト教徒によって、「魔法」「無神論」と告発され、「天そのもの 神の意志にすら戦を挑むもの」「神の掟)(おきて)はその施術(しじゅつ)を禁ずるものである」と激しい迫害を受けた。もって、思想の影響の深さを知るべきである。今やキリスト教は衰亡)(すいぼう)の一途を辿(たど)っている。だが、今なお西洋人の心を陰に陽に、キリスト教的な物の考え方が支配していることも見のがせない。こうしたキリスト教の歴史を見るにつけ、その底流に、恐るべき人間性の無視、抑圧があることをしるのである。キリスト教は、表面では、ある時は、ヒューマニズムを唱え、あるときは、平和を唱え、時流にのって、その都度、美しき言葉を吹聴(ふいちょう)する、だが、いったい、彼らのいう”ヒューマニズム”が,彼らの手によって一度でも、実現したであろうか。彼らのいう”平和”が、彼らの手で、一度でも叶えられたか。残念ながら、否、当然のことながら、彼らは、結果的に、戦争を助長し、人間性を抑圧してきたのである。あれだけ、キリスト教が深く流布していながら、なぜ欧米諸国は、植民地主義をもってアジア、アフリカを苦しめてきたか。所詮、キリスト教によるヒューマニズムは、きわめて根の浅い観念的なものである。その根底は、原罪説等に見られるように、人間性に対する罪悪視であり、偏狭なる生命観である。

共産主義思想とスターリン治下のソ連

一方「神なき宗教」といわれる共産主義もまた、それが行動化され、実践化されたときに、多くの犠牲を生んだのであった。それは、スターリン治下のソビエト社会に、最も殺伐とした形であらわれた。農業集団化にともなう、何百万、否、一千万以上の農民の大量虐殺、餓死については、前章で述べたとおりである。スターリンは、独裁者の地位につくと、トロッキーやジヴィエフ等の「左翼反対派」をけおとし、さらに、ブハーリンやルイコフをかたづけた。一九二八年から一九三二年にかけての第一次五カ年計画においては、多くの「反対派」党員の粛清があり、また、農民、旧インテリ、少数民族など、おびただしい数の、名もなく、よるべのない、無辜(むこ)の民衆の犠牲があった。この時ゲーぺーウーの名は死神の異名として恐れられ、流刑地シベリアは、絶望の果てとして恐れられていた。一九二三年の初めに、スターリンは第一次五カ年計画の成果を誇らしげに語った。翌1934年一月から二月にかけて第十七回党大会を開いた。この大会は「勝利者たちの党大会」と名ずけられた。だがこれは勝利者ならぬ犠牲者の大会だったのである。その年の十二月にキーロフが暗殺(この暗殺の背後にはスターリンがあったとする説が有力である)すなわち、スターリンによって内務人民委員に任命されたエジェフにより、まず、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、ルイコフ等の、かってレーニンの側近だった人々が大粛清された。次いで、スターリンから不興を買ったスターリン主義者の人達が、次々と粛清されていった。第17回党大会の代表1965名のうち、1180名が「反革命の罪科」の名のもとに逮捕された。この大会で中央委員会に選ばれた139名の中央委員と候補のうち、その70パーセントの98名が逮捕、銃殺された。かくして、党大会の80パーセントが刑務所、強制労働収容所、処刑室に姿を隠していった。ましてや、平党員の何パーセントが行方不明になり、生命を失ったかは、計り知れない。また数千の非党員も犠牲となった。また幾十万の市民が家庭と職場から連れ出された、強制労働所にほうりこまれた。しかも、その選び方は、あまりにもばかげていた。時には警官が街の一角を軒並みに歩き、気まぐれにドアのベルを鳴らしては、あちらで一人、こちらで一人というように、まったく罪のない人たちを車に乗せて運び去った。その目的は、労働力をふやすこと、隣人を恐怖におとしいれることいがいに何もなかったという。軍の粛清も仮借なく行われた。1937年、ポーランド戦争の英雄、赤軍建設の功労者でもあった参謀総長トハチェスキー元師以下八将軍が銃殺に処せられた。この時の粛清で、五名の元帥のうち三名、十五名の軍司令官のうち十三名、八五名の軍司令官のうち五七名、一九五名の師団司令官のうち一一〇名、四〇六名の旅団司令官のうち二二〇名が抹殺された。それよりも低い地位にある将校も、五千名が反逆者として死んだのである。そのほか行政機関等の粛清もきわめて激しいものであった。また非ロシア民族に対する粛清も凄惨であった。1938年にウクライナ共産党の第一書記になったフルシチョフによって、ウクライナの大粛清が行われた。またポーランドの共産主義者はほとんど全部銃殺、または投獄された。その他ユダヤ人等の他民族の粛清も行われた。そして、「エジョシチナ」の最後の犠牲者は、ほかならぬエジョフ自身であった。エジョフは1939年ポストを追われ、姿を消してしまった。その年の党大会で、スターリンは、もう大量粛清はやらないといった。しかし、全体主義体制の重苦しい空気、恐怖の世界は続いた。
第2次世界大戦が始まり、ソ連国民は、まる4年間、ドイツとの戦争で渾身の力をふりしぼり、ようやく戦争にかつことができた。だが、その後に待ちうけていたものは、またまたスターリンの圧政であった。再び国民の生殺与奪の権利は、スターリンに握られ、ベリヤの秘密警察は、いつでも未明に訪れて、ドアをノックし、不幸な人を有無を言わさず連行していった。それっきり、その人の消息は杳(よう)としてわからない。ソ連国民はたえず未明のノックにおびえながら、見ざる、いわざる、聞かざるの生活を送らねばならなかった」
これらの事実を知って、われわれは、その冷酷、残忍なのに驚くよりも怒りを催す。だが、その底流に、生命を、物質の存在様式に過ぎぬとしか見ない、低級なる唯物論の生命観があったことを指摘せざるをえない。あのような強制的な生活の画一化、虫けらのごとく粛清するあの悪魔のごときふるまい。これらに一貫して流れるものは、人間の個性の無視であり、人間の自由の略奪であり、人間の尊厳の無視である。すなわち「人間」そのものを、唯物論的な見地から見立てた、哀れなる結末ではなかったか。さらに、スターリンが、第2次大戦後、第3次世界大戦を予想して、重工業に力を入れ、国民に極度の耐乏生活を押し付けるなど、その底には、戦争は宿命的に避けられないという、レーニン以来のテーゼがあったこともいなめない事実である。ここにも、偏狭なる思想、低級なる理念が、いかに、不幸をもたらすかが、如実にあらわれているではないか。

誤れる人種観・民族観=ナチ・ドイツ

また、第二次世界大戦中、ナチ・ドイツは、ユダヤ人の殲滅をめざして、600万人ものユダヤ人を殺害した。なぜ彼らがこのような暴挙に出たか。
ヨーロッパ諸民族のユダヤ民族に対する憎悪は、中世初期からの根深い伝統をもっている。その扇動者が「ユダヤ人はキリストを十字架にかけた悪魔の民だ」とする教会であった。ナチは、一方では共産主義の浸透を恐れる資本家の心を反共主義で捉え、一方で、この反ユダヤ主義を唱えて、ゲルマン民族を至高とする民族感情を味方にしたのである。1993年4月、ナチ政権はユダヤ人商店に対するボイコット令を出した。第一次大戦後の経済苦にあえぐドイツ国民は、たちまちこの作戦にのせられて、生活苦の根源はユダヤ人にあると思い込み、憎悪の念を駆り立てられた。ユダヤ人商店襲撃が全国的な国民運動として繰り広げられた。ここまで反ユダヤ感情が昂まったことが、ナチのユダヤ人殲滅作戦を正当化し、推進する大きい力となったといえる。1942年1月、いわゆるヴァーンゼー会議がゲシュタポ長官ハイドリッヒのもとに開かれた。そして、全ヨーロッパのユダヤ人(当時1100万人)を東ヨーロッパで強制労働に酷使したうえで絶滅するという計画がたてられたのである。しかし、実際には、老人、子供、婦人の多くは強制労働に耐えられないので、すぐに殺された・。アウシュヴィッツ、マイダネック、ヘルムノ、ベルゼック、ソビボール、トレブリヤンカ等の収容所が、このために設けられた。所長以下、少数の役人はナチ親衛隊で占められたが、下級役人は政治犯や刑事犯が転用された。特に刑事犯が役人になったところでは、残虐を極めたという。そうでなくても、本来、収容所の目的が、体力を弱らせ、病気にかからせ、絶滅することにあったのだから、その悲惨さはいうまでもない。有名なガス室や死体焼きかまど、大量銃殺溝等々、すべて、人間が人間を殺すために考え出された道具立てである。なんという残虐、なんという冷酷、なんという狂気、そして、なんという人間性無視の悲劇であろうか。それは、偏狭なる人種観、民族主義が当時のドイツ国内のさまざまな不平不満と結びつき、さらに、それに指導者の征服欲、名誉欲、利害等が結合し、暴発的な感情となり、人々を狂信的な、ユダヤ民族殲滅の暴挙へとかりたてたのである。だが、この誤れる人種観、民族観が、直接的には結びつかずとも、キリスト教の「ユダヤ人は”危険な、堕落した”民族であり、神を否定し、キリストを殺害したために、神に呪われている民族である」との思想に、淵源がなかったと誰が断定できようか。そうでなくとも、ナチにローマ教会が妥協したことは周知の事実であるし、そこにキリスト教の二重人格性が顕著にあらわれているといえるのではないか。これまた、人間性を無視した偏狭なる思想が、権力と結びつき、戦闘化したときに、いかなる悲惨な現実が展開されるか、そのよき証拠である。

東南アジアに見る宗教の害毒

また、アジアにおける思想、宗教の影響性の一例として、インドとパキスタンの根深い対立がある。すでに1947年、両国の分離独立に際しては、650万のイスラム教徒が、インドからパキスタンにのがれ、逆に、50万の非イスラム教徒が、パキスタンからインドへ行ったという。この時、パンジャブ州を中心に両教徒の無差別殺戮が行われ、その犠牲者は、イスラム教徒だけでも、なんと50万に達したといわれている。彼らは、宗教に力がないために、それに政治上の利害が絡み、力に訴えて解決しようと試みるのである。この両国間の対立を根本的に解消することは容易ではない。またインドの内部におけるカースト制度は、現在、4千種にわたる階級があり。それがどれほどインドの近代化を妨げてきたことか。しかも、今日法律でカースト制が禁じられているにもかかわらず、きわめて固定化した形で残存している。これまた、ヒンズー教が、どれだけ民衆の生命の中に浸透しているかを示すものであろう。また、小乗仏教国といわれる東南アジアの国々の民衆が、西欧の植民地支配のもとに呻吟してきた無気力、惰弱、消極的風潮のなかに、宗教の、害毒が、強く、はっきりとにじみ出ているのである。もともと小乗教では、この人生を、苦・空・無常・無我であると立て、煩悩すなわち人間の欲望を断じ尽くした境地を悟りとした。このために、比丘に250戒、比丘尼に500戎等の戒律を持たせようとした。ここに小乗教が戒律主義であるといわれるゆえんがある。だが、いったい、煩悩を断じ尽くすなどということができようか。また、それができたとしても、そんな人間は、もはや木石となんら変わらぬではないか。このような教えは、現実を否定し、無視し、他の世界に幸福を求めゆく思想である。釈尊も、こうした教えは真実ではないと、のちに、自身で否定している。ただ、真実の法に入らしむる手段にすぎなかったとして排斥しているのである。これら、小乗の教えは、釈尊当時のインドの民衆の、享楽主義的風潮を打ち破るため、またバラモンの教えを破るための仮設にすぎない。このような、低級な教えを根本にすれば、当然、自由な人間性を疎外し、建設するたくましき生命力をむしばみ、無気力と、偽善とを植えつけてしまうのである。思想とはまことに恐ろしきものである。一人の人間の人生を徹底的に決めてしまうことはもちろんである。だがそれが、いったん社会に流布し、全体の中に浸透したときに、思想は、最もその威力を発揮する。思想の力に比べれば、権力、財力など物の数ではない。いかに巨大な権力をもとうが、いかに巨万の富を積もうが、その一代限りで滅び去ってしまう場合もある。その興亡盛衰がいかにきびしいかは、歴史が如実にこれを示しているではないか。だが、いったん社会の奥深く打ち込まれた思想は、その後何百年、いや何千年と生き残る。そして、その社会の歴史に一貫した宿命をもたらす。そうなれば、もはや、その社会に生きる人は、その思想を自身では、信奉しいるとおもわなくとも、しらずしらずのうちに、その思想の影響を受けているのである。ひとたび、自覚して、これを打ち破らんとすれば、平穏な世界は再び変じて、いかに憎悪(ぞうお)と怨嫉(おんしつ)と迫害のきびしいかを知らされるのである。

太平洋戦争における神道

わが国においては、低級な、邪悪なる思想、宗教がいかに国の前途を誤らせたかを顕著に示す例として、あの太平洋戦争における神道が上げられよう。明治以来の神道思想は、天皇の神格化とともに、神州不滅の国家主義思想を形成し、戦争遂行の原動力となっていたのである。しかるに、神道そのものには、なんの指導理念もなく、いたずらに国民を精神主義にかりたてるばかりであった。一億の民に挙げて神社参拝することを強制した。国家権力によって押し付けられたこと自体、すでに宗教に力のない証拠である。盲信とも、迷信ともいうべきであろう。その結果は、あの戦争中の神がかり的な神風思想となり、竹やり主義の日本精神となり、昭南神社(シンガポール)や朝鮮神宮等に見られる他民族への強制という愚劣な政策となって現れ、多くの破綻を生じたのである。また、思想教育の力は、あの客観的には、まったく勝ち目のない戦争を、最後まで皇軍必勝と信じさせたのである。だが、結果は、未曾有の大敗戦であった。終戦直後、幾多の軍関係者が、皇居前広場で自決した。民間の極右翼の集団自決もあった。その信念の破綻(はたん)から、悲しくも、みずからを死に追いやったのである。まことに思想の恐ろしさは、言語にぜっするものがあるではないか。一片の思想が、かくも根強い国民感情を形成し、あの未曾有の大戦乱を巻き起こし、その破滅は、また多くの犠牲者をともなった。だが、このように思想に威力があるにもかかわらず、人々は、思想自体の高・低、浅・深、正・不正に対しては、あまりにも無関心であり、無感覚である。いわば思想の魔力ともいうべきか。われわれは、これまで、西欧のキリスト教、ソ連の共産主義、インドのヒンズー教、東南アジアの小乗仏教、そして日本の神道等をみてきたが、これらの例をもってしても、思想教育の高低、正邪が、いかに人生に、社会に、多大な影響をもたらすかが深刻にわかるではないか。されば、思想の高低、宗教の正邪を、あくまでも政治権力に左右されず、真剣に検討すべきであろう。われわれが、まず、宗教革命に立ち上がったのも、そのためであり、それ以外には断じてない。

現代の日本における邪宗教

しかるに、現代の日本の宗教には、キリスト教よりも、小乗教よりも、ヒンズー教よりも、神道よりも、恐るべき狂気の宗教が横行しているのである。特に宗教の根本とすべき本尊を誤れば、その人の生活は根底より破壊され、不幸の巷を流転するしかないのである。われわれは、身のまわりにキツネつきとか、あるいはヘビのようにのたうちまわる、むざんな姿をみたり、聞いたりする。狐狸(こり)を拝むものは狐狸の姿を身に現じ、蛇竜(だりゅう)を拝めば、またその姿を身に現ずる。まことに不思議であり、かつ恐るべきことである。これ、われわれの生命の中に本然的にそれらの生命の働きがそなわっており、縁にふれてあらわれてくるという、仏法の正しいことを示しているではないか。このように、拝む対象の影響力は、われわれの身に重大な変化を起こす。現在、信仰の対象たる本尊は、きわめて多種であり、狐狸・男女の陰部・水火・太陽・山岳等の自然物等、驚くべき数にのぼる。仏教中、釈尊を立てる宗派においても、小乗教の釈尊から寿量顕本の釈尊まで種々雑多であり、真言宗は大日如来を、浄土宗は阿弥陀如来を、日蓮宗は釈迦の立像、また日蓮大菩薩と呼称して大聖人の像を、あるいはにせ曼荼羅を拝むなど、みな思い思いに勝手な本尊を立てている。だが、これらの本尊が、いかに誤りも甚だしいか、文・理・現の三証からも、五重の相対、三重秘伝等の宗教批判の原理に照らしても、また一念三千の法理のうえからも明日なるところである。これらの本尊をもとにした邪宗教は、人間の生命に深く食い入って、本質的にその生命をむしばむ悪鬼となり、悪魔となることは絶対である。妙楽大師は、正境に縁すれば利益多しと述べ、大聖人も御書のなかで、幾多正しき本尊の功力を強調されているが、その反対を考えれば、邪宗教の害毒、まさに恐るべきではないか。これを大聖人は「魔来り災起り難起る」といわれたのである。魔も鬼も、その意味は、語訳に詳説したとおりである。ともに、人の善心を破壊し、生命を濁らせ、不幸にする働きであり、根本的には、邪宗、邪義、邪智より起こるものである。「魔来り鬼来り」とは、正報(しょうほう)であり「災起り難起る」とは依報(えほう)この文は依正不二(えしょうふに)を示している。正報とは、自己の生命活動そのものであり、依報とは、環境のいっさいである。所詮、人間生命の濁りが、個人の生活を破壊し、さらに、社会全体をも混乱におとしいれ、国土も災難をもたらすのである。

謗法(ほうぼう)の人の死後

さらに、永遠の生命観に立てば、もしも邪宗教を信奉するならば、その人の生命の本質が破壊されるがゆえに、未来永劫に不幸の連続であり、生きては、苦悩に打ちひしがれ、死しては無間(むげん)の焔(ほのお)にむせぶのである。これ経文に明らかであり、大聖人の御書に歴然としているところである。法華経比喩品(ひゆぼん240ぺージ)には、邪宗教に迷い、正法(しょうほう)に背いた人が、死後どのようになるかが説かれている。

もし人信ぜずして、この経を毀謗(きぼう)せば、即ち一切世間の仏種(ぶっしゅ)を断然。或いはまた、顰蹙(ひんじゅく)して疑惑(ぎわく)を懐(いだ)かん。汝当(なんじまさ)に、この人の罪報(ざいほう)を説くを聴く(き)くべし。もしは仏の在世(ざいせ)、もしは滅度(めつど)の後に、それ斯(か)くの如(ごと)き教典(きょうでん)を誹謗(ひぼう)すること有(あ)らん。経を読誦(どくじゅ)し書持(しょじ)すること有らん者を見て、軽賎憎嫉(きょうせんぞうしつ)して、結恨(けっこん)を懐(いだ)かん。この人の罪報を汝今復聴(なんじいままたき)け。その人命終(みょうじゅう)して、阿鼻獄に入らん。一劫(いっこう)を具足して劫尽(こうつ)きなば更生(またう)まれん。是の如く展転(てんでん)して、無数劫に至らん。地獄より出でては、当に畜生に堕(お)つべし。若(も)し狗野干(いぬやかん)しては、その形こつ痩(こつしゅ)し、黧黮疥癩病(りたんけらい)にして、人に触嬈(そくじょう)せられ、又復(またまた)人に、悪(にく)み賤(いや)しまれん。常に飢渇(けかつ)に困(くる)しんで、骨肉(こつにく)、枯渇(こかつ)せん。生きては楚毒(そどく)を受け、死しては瓦石(がしゃく)を被(こうむ)らん。仏種を断ずるが故に、この罪報を受けん。もしは馲駝(たくだ)となり、或は驢(ろ)の中に生まれて、身に常に重きを負い、諸々の杖捶(じょうすい)を加えられんに、但水草を念(おも)いて、余は知る所無けん。この経を謗ずるが故に、罪を獲(う)ること是の如し(かくのごとし)。

有(あるい)は、野干(やかん)と作って聚落(じゅらく)に来入せば、身体疥癩(けらい)にして、又一目無からんに、諸々の童子に打擲(ちようちゃく)せられ、諸々の苦痛を受けて、或時は死を致さん。ここにおいて死し巳(おわ)って、さらに蠎身(もうしん)を受けん。その形長大して、五百由旬(ゆじゅん)ならん。聾騃無足(ろうがいむそく)にして、踠転腹行(えんでんふくぎょう)し諸の小虫に唼食(そうじき)せられて、昼夜に苦を受くるに、休息(ぐそく)有ること無けん。この経を謗ずるが故に、罪を獲(う)ること是の(かく)の如(ごと)し。もし人と為ることを得ては、諸根暗鈍(しょこんあんどん)にして、矬陋癮躄(ざるれんびゃく)、盲聾背傴(もうろうはいう)ならん。言説する所有らんに、人信受せじ、口の気(いき)常に臭く、鬼魅(きみ)に著(じゃく)せられん、貧窮下賤(びんぐけせん)にして、人に使われ、多病痩痩(しょうしゅ)にして、依祜(えこ)する所無く、人に親附(しんぷ)すと雖(いえど)も、人意(こころ)に在(お)かじ。もし所得有らば、尋(つ)いで復忘失(ぼうしつ)せん。もし医道を修め方に順じて病を治せば、更に他の病を増し、或いはまた死を致さん。もし自ら病有らば、人の救療(くりょう)すること無く、設い良薬を服すとも、而も復憎劇せん。もしは他の反逆(ほんぎゃく)に、抄劫(しょうこう)し竊盗(せっとう)せん。是(かく)の如(ごと)き等の罪、横(よこし)まにその妖(わざわい)に羅(かか)らん。是の如き罪人は、永く仏、衆聖(しゅうしょう)の王の、説法教化したもうを見たてまつらじ 。斯(か)くの如き罪人は常に難処(なんじょ)に生まれ、狂聾心乱(おうろうしんらん)にして、永く法を聞かじ。無数劫(むしゅこう)の恒河沙((ごうがしゃ)の如きに於いて、生まれては輙(すなわ)ち聾瘂(ろうあ)にして、諸根不具(しょこんふぐ)ならん。常に地獄に処すること、園観(おんかん)に遊ぶが如く、余の悪道に在ること、己(おの)が舎宅(しゃたく)の如く、駝驢瀦狗(だろちょく)是れその行処(ぎょうしょ)ならん。この経を謗ずるが故に、罪を得ること是の如し。もし人と為ることを得ては、聾盲瘖瘂(ろうもうおんな)にして、貧窮諸哀(びんぐしょすい)、以って自ら荘厳(しょうごん)し、水腫乾痟疥癩癰疽(すいしゅかんしょうけいらいおうそ)、是の如き等の病、以って衣服(えぶく)と為(せ)ん。身常に臭きに処して、垢穢不浄(くえふじょう)に深く我見に著(じゃく)して、瞋恚(しんに)を憎益(ぞうやく)し、婬欲熾盛(いんよくしじょう)にして、禽獣(きんじゅう)を択(えら)ばじ。この経を謗ずるが故に罪を獲(う)ること是の如し」

この経文は観念でもなければ、虚構でもない。現実生活の実相なのである。日蓮大聖人は、法華経について「六万九千三百八十四文字悉(ことごと)く仏なり」と仰せられ、一言一句ことごとく真実であり、生命のきびしき実相を説き窮(きわ)めていることを示されている。これほどに恐ろしき邪宗教に、人はなぜかくも無感覚でいるのか。

聖愚問答抄上(474ページ)にいわく「悲しいかな痛ましいかな我等無始より已来無明(このかたむみょう)の酒に酔て六道・四生に輪回(りんね)して或時は焦熱・大焦熱の炎(ほのお)にむせび或時は紅蓮(ぐれん)・大紅蓮の氷にとじられ或時は餓鬼・飢渇(けかち)の悲みに値(あ)いて五百生の間飲食(おんじき)の名をも聞かず。或時は畜生・残害の苦しみをうけて小さきは大きなるに・のまれ短きは長きに・まかる是を残害の苦と云う、或時は修羅・闘諍(とうじょう)の苦をうけ或時は人間に生まれて八苦をうく生・老・・病・死・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五盛陰苦(ごじょうおんく)等なり或時は天上に生まれて五衰(ごすい)をうく、此(か)くの如く三界の間を車輪のごとく回り父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず夫婦の会遇(あいあえ)たる事をしらず、迷える事は洋目(ようもく)に等しく暗き事は狼眼(ろうがん)に同し」

この文は、明らかにわれわれが過去遠々劫(かこおんのんごう)より今日までいかに不幸にさいなまれ、苦悩の巷(ちまた)を流転(るてん)してきたか、そして、今日、われわれの生命のなかには、いかに多くの不幸なる宿命がひそんでいるかを示されたものである。ここに「無明の酒」とは邪宗教である。このように邪宗教は、一人一人の人間の一生のみならず、測り知れないほど長きにわたって生命の奥底(おうてい)を支配する。

この地上に展開される地獄絵巻図

しかも、ここに示された姿は、けっして。この地球とは別の幻想の世界にあるのではなく、二十世紀の今日ですらこの地上に現出したし、また現出しているのである。大焦熱(しょうねつ)地獄とは、まさに広島、長崎の原爆の悲劇がそれではないか。一瞬にして火の海と化し、猛火に焼かれゆく人々の苦悩を、地獄と呼ばずして、何といおうか。また、紅蓮(ぐれん)地獄とは、八寒地獄の一つであり、この地獄に落ちたものは、酷寒のために皮膚が裂けて真っ赤になり、ちょうど紅色の蓮華の花ににているところから、このように名づけられた。これまた現実にあったのである。第二次大戦中、ソ連西部はナチ・ドイツの侵略を受けたが、オデッサの町でも徹底的な反ナチ主義者に対する弾圧がおこなわれた。ナチの親衛隊は、町の広場に鉄の檻をすえ、捕えたパルチザンを裸にして入れて絶えず水を浴びせた。極寒のために男たちの肉はむけ落ち、赤い花が咲いたようになったという。まさに、紅蓮地獄そのものではないか。その他、同じくナチがユダヤ人絶滅のために設けた強制収容所、ワルシャワのゲットーの悲惨な姿、また、日本軍がマニラをはじめ各地で行った捕虜虐殺、アメリカ軍とても、そうした行為がなかったわけではないし、いわんや原爆等によって非戦闘員数十万を焼き殺したではないか。戦争は常に、かかる地獄絵図を描き、人々を餓鬼界、畜生界、修羅界の狂乱にかりたてるものであろうか。戦争はすなわち兵革(ひょうかく)の災、自界叛逆(じかいほんぎゃく)・他国侵逼(たこくしんぴつ)である。その原因は「世皆正に背き人悉(ことごと)く悪に帰す」ところにあるとの御断言であられる。

真の宗教による宿命打開

もとより、戦争だけが地獄、餓鬼、畜生界現出の根源ではない。むしろ、戦争そのものは、三悪道の生命に支配された人間の一念のあらわれである。ゆえに、その根を断つためには、正法による宿命打開、生命浄化以外にないことが明らかではないか。「宿命のこの闇黒な、底気味悪いが、しかし、本質的な週律が生命の中に脈うっている。詩人は魅惑されて、学者は拱手(きょうしゅ)して、哲人は絶望してこれをみている。身体の宿命、しかも最も不可思議のもの」ドイツの医学者ハンス・ムフは、宿命についてかく叫んでいる。しからば、この宿命は打開されえぬものであろうか。多くの哲学、宗教は、宿命は定まれるものとなして、それを諦(あきら)めさせようとする。そのなかでも、現在の多くの邪宗教は、因縁話で無智な人を鎖でつなぎ奴隷のようにし生命力を奪い生ける屍(しかばね)とさせゆくのである。だが、人生の実相は、宿命との対決であり、事実、宿命打破へ、宿命打破へと人々の努力は向けられているのである。にもかかわらず、宿命にしばられ、宿命に流され、宿命に泣く人のなんと多きことか。それでも人々の努力は続けられる。単なる宿命説は、人間の本性を無視するものであり、力なき哲学であり、敗北の哲学である。ここに、邪宗教に迷い宿命打破の偉大なる宗教を見失えば、人々は再びまた、未来永劫にわたり三悪道、四悪道、六道の闇黒の世界をさまようのみである。

目に見えぬ敵

 邪宗教はかくも恐ろしいのである。ある人いわく「目に見えぬ敵を恐れよ」と。まことに邪宗教こそ”目に見えぬ敵”であり、最も恐れねばならないのは、邪宗、邪義、邪智である。
富木殿御書(969ページ)にいわく

「智者は怨家(おんけ)・邪・火毒・因陀羅(いんだら)・霹靂(びゃくれき)・刀杖(とうじょう)諸の悪獣・虎狼(ころう)・師子等を畏るべがらず、彼は但能く命を断じて人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむること能(あた)わず、畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識mとなり決定(けつじょう)して人をして畏(おそ)るべき阿鼻獄に入らしむ」この邪宗教の害毒を知ればこそ、われわれは、人に伝えぬわけにゆかないのである。もし、人が不幸になるのを知って、ただ、拱手(きょうしゅ)して見ていたとすれば、その人は卑怯であり非人道であろう。

開目抄下(237ページ)にいわく

「我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を灸(やいと)せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくの如し『慈無(じな)くして詐(いつわ)り親しむは即ち是れ彼が怨(あだ)なり』等云云」と、まことに「言わずんばある可からず恐れずんばあるべからず」である。

諸天善神と神天上

人はよく「神は実在するしかないか」といった議論をする。だが「神は実在する」という人も、「神は実在しない」という人も、神そのものについては、きわめて、漠然(ばくぜん)とした、あいまいな考えしかもちあわせていない。一般に、人々が「神」を口にするとき、人類の未開時代にもった、アニミズムとシャーマニズムの心霊概念を別にすれば、大きく三種類に分けられる。

三種類の「神」

''第一の神''は、天地創造の神である。たとえば、ユダヤ教のエホバ、キリスト教のゴッド、イスラム教のアラー、天理教の天理王命、金光教の天地金之神がこれに属する。およそ天地創造説が、幼稚な想像にすぎないように、この劇の主役たる神も、また想像の産物にすぎない。近代科学の発達にともなって、その幻影はことごとく打ち消されてしまった。これと共に、そのような神の神話的な面を否定しながら、思弁哲学という別の面で、神を想定した人々がいる。キリスト教神学の神秘主義から発展し、デカルト、スピノザ、さらにヘーゲルに至る観念論哲学である。彼らは、この世のあらゆる現象が、絶対的な神の意志によって動かされているとすることによって、自己の思弁の体系化を試みたのである。二十世紀後半に入った今日、唯物論哲学で教育されたソ連の青年科学者たちの間でも、自然界のあらゆる現象の奥に、人智の及ばない不思議の法があるとして、これを神と呼ぶ新しい宗教が芽生え始めているという。これらはすでに天地創造の神とは、まったく異なった神への発展であるが、その思惟方法は軌を一にしているのではなかろうか。彼らが表現出来えないで、ただ概念的に想定しているその神とは、仏法に教えを求めて初めて明らかとなる。すなわち、南無妙法蓮華経の一法こそ、その本体であると断定できるのである。
第二種の神 は、氏属の先祖を神格化した氏神、あるいは、生前、功績のあった人を尊敬し、死後も残そうとした神社の御神体等の類である。前者の例として、日本の天神七代、地神五代をはじめ、バラモン教の梵天・帝釈、ゾロアスター教のあフラ・マツダ等、アジアその他各地の神々がある。天照大神は天皇家あるいは大和民族の先祖神であり、大国主命は出雲氏族の先祖神という。後者の例では、八幡神社には応神天皇が祀られ、また、乃木大将や東郷元帥、明治天皇も神として祀られていることは、周知のとおりである。先祖や功労者を神とする宗教は、彼らを敬う民衆の心情を、為政者や営利にさとい連中が利用して、宗教にデッチ上げたものにすぎない。祖先に感謝し、功労者に敬意をいだくのは正しい。これは道徳の範疇である。だが、道徳上の尊敬と、宗教的な救済とはまったく異なる。祀(まつ)られている先祖や功労者は、土地の開拓者として、或いは、ある分野のことに関しては才能ある人として、偉大であったかもしれない。だが人生の苦悩を解決したわけでもなく永遠の生命を覚知して成仏したわけでもない。迷いの衆生であることに変わりはない。その意味で、自身をすら救えなかった彼らが、死んで衆生を救う力が出てくるなどという不合理は、ありえないことである。
第三の神 は、仏教に説かれている神である。信仰の対象ではなく、末法の世に正法を受持し弘法(ぐほう)に励む者を守るという誓願を立てた諸天善神である。この神の働きは、実在の概念よりも、むしろ作用の概念をもってみるべきもので、日蓮大聖人の生命哲学をもったときに、その人を不幸から守り、あるいは迫害者から守る働きとして現れてくるものである。

諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)578ぺージにいわく「有る教の中に仏・此の世界と他方の世界との梵釈・日月・四天・竜神等を集めて我が正像末(しょうぞうまつ)の持戒・破戒・無戎等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が人王・人民等の身に入りて悩乱せんを見乍(みなが)ら聞き乍ら治罰せずして須臾(しゅゆ)もすごすならば必ず梵釈の使いをして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神・治罰を加えずば梵釈・四天等も守護神に治罰を加うべし梵釈かくの如し、梵釈等は必ず此の世界の梵釈・日月・四天等を治罰すべし、若し然らずんば三世の諸仏の出世に漏れ永く梵釈の位を失いて無間大城に沈むべしと釈迦多宝十方の御前にして起請を書き置れたり」と。また、治病大小権実違目(997ページ)にいわく「法華経の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶(なお)備われり元品(がんぽん)の法性(ほっしょう)は梵天・帝釈等と顕れ元品の無明(むみょう)は第六天の魔王と顕れたり」と。すなわち、諸天善神は、悪鬼神と表裏の関係にあって、十界互具の生命自体に、本来備わっている。宇宙自体を生命体とすれば、宇宙に諸天善神がある。世界を一つの生命体とすれば、世界の諸天善神の働きがある。戸田前会長が、一国謗法(ほうぼう)により敗戦の日本に信教の自由を打ち立て、妙法流布の条件を整えたマッカーサーを梵天に相当すると教えられたのは、この世界の諸天の謂(いい)である。 天照大神、八幡等は、同様の原理にして、日本という一国の国土における諸天善神をいう。さらに、一人人間革命についても、同じ原理による諸天の働きがあることはいうまでもない。しかして、一個の人間の諸天の働きが、一国、世界、宇宙の諸天をも動かす原動力となるのである。一国の繁栄も、世界の平和も、宇宙の平静も、強情なる信心に立った我ら妙法護持者の祈りによって、すべてが決定されていくことを知らなければならない。 [#ua2eae59]

諸天善神について
以上、神について三種類あることを示したが、さらにこのうち第三の諸天善神を取り上げて述べてみよう。法華経の序品では「爾の時に釈堤桓因(しゃくだいかんにん)(帝釈天王のこと)其の眷属(けんぞく)二万の天子と倶(とも)なり。

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