日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

指導メモ

       すばらしき仏法の教え 



指導メモ From President Ikeda’s Guidance  著者 (池田大作) 昭和41年6月 聖教新聞社発行から抜粋させて頂きました。若いときの私(22歳ころ)がこの本を購入して学んだ珠玉のごとき言々句々です。人生紆余曲折いろいろありましたが、まがりなりにもこの先生の指導書を人生の糧として歩んでまいりました。この一書のおかげで今日の自分があるものと確信しています。


本能

   [check]人間の欲望には限りがない。もっと金持ちになりたい、有名人になりたい、利口になりたい等々。それも本能であり、当然のことだ。しかし、そのためにかえって自己を苦しめ、みじめにしている場合が多い。 [check]仏法の説く諸願満足が最も大事だ。

自分はしあわせなど求めないといって、意地を張る人がいる。だが、心の奥底には、必ずしあわせを求める心があるものだ。 [check]仏法は特別なことを説いたのではなく、もともとある宇宙の大法則を示したものである。仏法の生命論のうえからも、人間がしあわせを求めるのは、本能的なものだといえる。

信心に生きる人

サルは木から落ちてもサルである。代議士は落ちれば代議士ではない。信心があれば仏界であり、信心がなくなれば地獄だ。財閥は、金には心配なくとも、景気の変動で、今は、非常にむずかしい経済情勢である。金があるゆえに苦しんでおり、かえって不幸な場合がある。有名人は、ひとたび有名でなくなったならば、人は見向きもしない。 [check]世の中は残酷、冷酷なものである。生涯の財宝は真実の信心のみである。

有名人、必ずしも幸福ではない。その実態をよく見れば、みな悩んでいる。野球の選手でも、俳優でも、有名になると、それだけでたいしたものだとみたがる。日本人のもっとも悪いクセだ。そのために彼等を余計に増上慢にさせる。正視眼で見ていく、正しい認識が必要だ。これがすべてに大事なことだ。これは信心によるしかできない。

[check]金で立ち上がった人は、金で慢じ、金で地獄へ落ちる。”有名”で人生を泳いできた人は、かえって、その”有名”がわざわいして、人気が落ちた場合には苦しむ、”権力”で地位を築いた人は、”権力”で倒される。結局、最後はなんといっても、信心で人生を行ききった人のみが、なにものにも負けず、なにものにも支配されず、永久に安心しきっていけるのである。

御本尊を受持していくならば、その人生は、人を憎むとか、人を殺すとか、落とし入れるとか、そういう悪意の人生観、社会観、世界観ではなくなる。 [check]自然に円融円満になり、あたかも十五夜の月のようになる。正しい、幸福へ、平和への人生観、社会観、生活観をもつことができる。したがって、大御本尊に題目をあげきっていくことが、真の人生を生きていくことになる。

希望

青年のときには、大きな希望をもつものだ。だが希望どおりの人生を、貫いた人は少ない。壮年になると、希望はしぼみ、老境にはいれば、希望などなくなってしまうのが、ふつうの人生である。自分の人生を、希望どおりに貫いていける確信が、信心である。

[check]最後まで希望をもっていける人はしあわせだ。生涯、希望を実現しようと戦う人は偉大だ。

青年
   [check]”世界を制覇せんと欲するものは、まず自己の悲哀を征服せよ”とは、ある政治家の残したことばである。生涯自己の魔と決戦してゆくのが仏法だ。また、”静かなる水と吠えない犬ほど恐ろしいものはない”というどいつの格言がある。青年は、どっしりとして、どこまで深いか奥底の知れない静かな水のように、深みのある人にならなくてはいけない。また、のら犬と違って、容易に吠えない、だがひとたび立ち上がったら、どれほどの力を発揮するか想像もつかないような落ち着きのある人にならなければいけない。

時を待つ
   [check]”愚人は太陽が昇るのを木に登って見たがる。賢人はじっと昇るのを待つ”という諺がある。われわれも一面は、何があろうと馬耳東風で、まっしぐらに進んでいくことが必要である。

戸田前会長は、”いっしょに死んであげよう”というほどの慈悲をもって、相手を思う心で、指導された。 [check]慈悲ほど強いものはない、それに、情熱と勇気である。どんなに厳しく指導しても、心から慕われるのは、心底から、相手の人のことを思っているからである。同じことばでも”一念の妙用(みょうゆう)で、結果はぜんぶ違ってしまう。

指導を受けたことは、ぜんぶ自分の鏡である。小才子になったり、泳いで渡るような生き方をせず、信心の世界だけは、正直にしていくことが、人生の勝利者になる因である。

一念の妙用(いちねんのみょうゆう)
  人を指導するには、その場限りの指導ではなく、いつまでも相手の心に残るような指導でなくてはいけない。また、たえず学会精神を中心にして、指導するならば、もっともっと後輩が育っていく。事故宣伝で終われば必ず行き詰まりがくるものだ。

初志
   [check]新聞、雑誌によく書かれようと、悪く書かれようと、そんなことは時代の一分野、一現象にすぎない。人生でいえば、カゼをひいたようなものである。指導者はどのようなことがあっても、一喜一憂してはいけない。どこまでも初志を貫いていくべきである。

健病不二
   [check]病気を治すには、まず体を丈夫にしよう、という一念が大事である。その一念があれば、病院へ行っても薬を飲んでも、それがよき助縁となる。これは信心をして薬がよく効くという、一念の妙用の原理だ。
御本尊に、ほんとうに願っていけば、多少、年限はかかることはあっても、病気が治らないわけはない。信心透徹すれば健病不二(こんびょうふに)である。 [check]病気の時でも本有(ほんぬ)の病気であり、健康でも本有の健康であり、本有常住で少しも変わらない。

これでよし
  刻々と時代は移り変わり、人生は時々刻々の闘争である。”もうこれでよし”ということはありえない。

 最後の最後まで、よしこれからだ、これでもか、と妙法を唱えて行くのが本因妙の仏法であり、信心であり、成仏に通じるのである。そして死ぬときに悠々と”これでよし”といおうではないか。

心の奥底
  われわれにとって大事なのは、心の奥底の一念である、、、、、自分の名誉を考え、後輩に対する思いやりがなく、ただ命令で動かそうとしたりするならば、いくら口で立派なことを言っても、人は心を動かさない。命令主義は誠の精神でもなく真の信心のあり方でもない。

 会社でも、社長が真剣なところは、やはり社員も緊張している。社長が遊んで出てこないところでは、やはり社員も心がゆるみ、乱れている。大事なのは [check]長の一念である。

人間革命
  仕事が思うようにいかないからといって、家族にあたりちらすような、あせった、枯渇した人物では、人はつかない。心境が進んできて、仕事もでき、一家和楽も築けるように、人間革命していけば、人はつくのである。組織で人はつくのではない。

[check]一念に億劫の心労を尽くせば本来無作(むさ)の三身念念に起こるなり所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は精進行なり”とのおおせがあるが、自己の生命力を強くし、目的観を高くもって、境涯を開いていけば、すべてが変わってくる。もし人とミゾがあったとしても、大きく、それを理解し、 [check]包容していけるだけの自分に成長していけば、自然に解決してしまうものである。

 ”時”というものはかならずあるものだ。柿でも、ちょうどいい食べごろがある。ブドウにしても、シャケにしても、季節がある。同じように、自分が成長できる時を見失ってはいけない。妙法護持した今が、最高のチャンスと知るべきだ。


第八章 日々の指針
  リズムある毎日を。
  今日のことは今日やろう。
  自信を持って事に処せ。
  冷静なる判断、敏速なる処置
  勇敢たれ、沈着たれ、賢明たれ。
  学会精神に立ち戻れ。
  題目第一、仕事第一、折伏第一。
  仕事を義務と思うな。
  千載一遇の御供養に全力を尽くせ。
  先ず頭を使え。
  良い工夫を、良き仕事を。
  朝は元気で、一日の出発なれば。
  先手を打て、後手になるな。
  五座三座の勤行を、仕事の大原動力に。
  皆んなで働き、みんなで楽しみ、みんなで栄えよう。
  自分らしく、何でも一番を目指せ。
  暗い疲労は敗北の因、明るい成長は勝利の因
  今日の使命を果たせ、汝の勝利への道として。
  率直に意見を言え。率直に意見を聞け。
  常に壮健であれ、壮健にあらざれば戦いは出来ず。
  朗らかに戦い、一日を楽しく送れ。
  自分を粗末にするな、広布の大事な命なれば。
  逞しく働こう。そして豊かな生活を獲得しよう。  
  全員渉外部員と成って、味方をつくれ。
  世間の批判に一喜一憂するな、吾等は堂々と随自意(ずいじい)で  進もう
  広く人材を伸ばし、同志と共に栄えよう。
  連絡報告を迅速にせよ、これ勝敗の岐路なれば。
  先ず思索せよ、次は大胆に動け。
  自己の持ち味を出せ、そして人の持味を出さしめよ。
  社説を読め、いかなる新聞においても。
  すべて積極的に書け、話せ、そして進め
  余裕ある行動、自信ある行動、そして明朗なる行動たれ。
  自己には厳しく、人には寛大に、そして全体の調和を持て。
  各部署は明るくせよ
  そして自己のため、隣人のため、最大の効果を上げよう。

財産
   [check]一切は諸行無常(しょぎょうむじょう)であり、有形のものはいつかは消えてゆく。大切なのは福運である。その福運を積む根本の御本尊を、たもつことが最高の財産である。どんな楽しみも、そこで感ずる幸福感は天上界(てんじょうかい)菩薩界であって、仏界ではないから永久不変のものではない。

[check]世間の財閥など驚くことはない。ほんとうの財産とは、御本尊を受持した者をいうのであり、”無常宝珠不求持自得(むじょうほうじゅふぐじとくという打ち出の小づちを持っているのである。

[check]幸福は、他人をあてにして得られるものではない。信心によって自分で築いていくものである、結婚の相手は、自分の責任で選ぶべきであり、先輩に相談することや、年配者の意見を聞くことも大切だが、最後の決定は、自分の責任である。

公平と寛容
  指導者の心構えは、ひとつには、自分の感情を中心にしないことである。冷静に人々を見ていれば、その人の性格や人柄を知ることが出来る。

  その人その人を、適材適所に配置してゆくことである。自分におせじを使わないからとか、いつも質問ばかりして、やっかいだからとか、性格的に合わないからとか、自己を中心にした邪推や憶測で人事の決定をしてはならぬ。

  卒に卒たるは易く、将に将たるは難し。

  指導者は、常に思いやりがなければならない。指導者が、全体に心を使っていかなければ、下部の人が可愛想である。民主主義の大原則からいっても、働いている人、それぞれの部署を守って戦っている人を大事にしなければならない。今の資本家や指導階層には思いやりがないから、働いている人が気の毒である。賃金で労働力を買うという思想のみでは間違いであり、同じ人間なのだからという、思いやりが大事である。

人生の機微
  人生の機微を知るとは、決してむずかしいことではない。たとえば”この人はずいぶん疲れているな” ”この人はよくやっているな” ”何をもとめているのか”と相手をしってゆくことが第一である。

  相手を構わず自分を押し付けたり、ワクにあてはめて、考えようとする人生の機微はわからない。親身になって考える思いやりの心が強ければ、その機微を知ることができる。疲れてぜんぜん御書など頭にはいらないのに勉強せよといっても通じない。その人が幸福になるために、何を知りたいのかを理解してあげることである。

大将は、ゆうゆうとして、且つ慎重であり、時には果断に指揮をとれ。
不必要に皆を疲れさせたり、大事な点をぼかしたり、優柔不断であっては、戦機を失ってしまう。後輩を暖かく育てられる人でなければ、自分も守られるわけはない。

時間と約束は、必ず厳守すること。大勢の人を長時間待たせたりしてはならない。民衆の心を離反させ、信頼を裏切ることになる。もし都合が悪かったり、緊急のことが起きた場合には、必ず連絡して、誰か代理を出し、来た人を満足させて帰さなければならない。それができなければ、無慈悲な幹部であり、指導者としての資格をうすなうことになる。
幹部は自分を偉いと思ってはならない。人は御本尊様についてくるのであって、自分が偉いからつくのではない。錯覚を起こして、増上慢になってはならない。

後輩が”行ってきます”と出発するとき”よし、しっかりやれ”と境智冥合することが大切だ。それがないと後輩は、張り合いをなくする。激励のひとことで、魔を破るのである。

批判
  外部の雑音にわずらわされず、確信をもって邁進していく人が先覚者であり、それを実践しきった者が、最後の勝利を収めるのである。

企画と実践
  行動を起こす場合には、目標を立て企画を練っていくべきだが、人生は決して企画どおりにいくものではない。いくさにしても「あそこに敵がいる筈だ」と前進したところが、背後にいたという場合はいくらもある。

企画は図上作戦であり、これは知識である。生活、活動は実践であり、その場に臨んだ応用である。故に知恵を働かせなければならない。これは随縁真如(ずいえんしんによ)の智が大事である。、、なども企画一辺倒の行き方で、ずいぶん失敗している。災害の対策なども、随縁真如の智でおこなわれれば、もっと有効である。どこの団体でも、どんな商売でも、企画どおりにいくものなら、みんな勝っているはずである。

戦いに当たっては、企画を立て実践し、常に試行錯誤し理と事の適合を計ることが肝要だ。

具体的
  個人指導にしても、座談会にしても、指導は具体的でなければならない。相手がもっと具体的なことを知りたいと願っている場合、自分の体験等を平易に、ありのままに話せば、それが尽きない指導となるものだ。幹部は、常に明るいふんいきをつくり、全般に心を配るとともに、相手を、納得させ、自信と感激を呼び起こしていける指導ができなければならない。

  いつも同じ話では、聞く方は、退屈し、我慢して聞かねばならないことになる。これでは指導する側の敗北である。身近な問題を、人間的に、ダイナミックに、ざっくばらんに話していけば、聞く方の胸を打ち、刻みつけられた感動がいつまでも残るものである。

役職と信心
  組織の役職は信心の位ではない。 [check]幹部になったから信心が立派だというのは錯覚であり、間違いである。信心はどこまでも自分自身に、きびしくしていかなければならない。 [check]御書にいわく”智者・学匠の身と為りても地獄に堕(お)ちては何の詮(せん)かあるべき”

自分が成長していれば、質問をうけても、暖かく、勇気をもって指導できる。反対に成長していないときには、一言で納得できる相手にまで、感情に走って、かえって反感をもたせるようになってしまう。

成長の源泉は何かー。第一に題目の力、第二に与えられた仕事、責任を全うすることに全力をあげていくこと、第三に瞬間瞬間、発心していこうというところに、歓喜と希望がわき、前進の原動力が出てくる。

信心の目的は役職ではない、一生成仏が目的である。へんな自己卑下はいけない。理事であろうが、会長であろうが、所詮はどれだけ法の為に尽くし、福運を積み、人生を衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく)して生きてゆけるかが根本問題である。

信心は形式ではない。支部長だから、地区部長だから尊敬されるというのは、形式だけの問題であって、真の指導者の内容とはいえない。役職も全部なくなって、一組員であっても”あの人の信心は立派だ。学会人として、たしかにほんとうの指導者だ”と尊敬される人こそ、真の指導者といえる。組織の役職にとらわれ、幻影を追う姿があるならば、こわいことである。

現代の英雄は、民衆の中から出て、皆の力を調和させていく人である、とある人が言っていた、これは正しい考え方である。所詮、ぜんぶ人間である。特別な人間はいないし、人間以上の人間はあり得ない。ゆえにこれからは一人の傑出した人の力よりも、全体の調和をとることが大事であり、団結せしむることが大切である。それを作り出せる指導者が現代の英雄である。

”仏をば世雄(せゆう)と号し、、、と御書(1165P)にある。われわれは日蓮大聖人、すなわち文底の教主釈尊を信じるのであるから、この世で、仏と等しい働きをしなくてはならない。だから世雄であり、現代の英雄である。政治であれ、言論であれ、また講義であろうが、どんな指導であろうが、なんでもやりきってみせるという、仏法を根底にした指導者が、世雄である。

過去と現在
  たとえ過去百千万の戦いに勝った功労があっても、現在の瞬間が零であるならば、その功労は消え、九仭(くじん)の功を一簣(いっき)にかくことになる。百万に零を掛けても零である。これが仏法のきびしさである。

過去に固執する考えを捨てて、強い信心の一念で、前に進み、新しい指導者になって育ってゆくことである。昔の栄光に、慢心を起こしてはいけない。 [check]どんなに輝かしい栄光も、過ぎ去ってしまえば、一場の夢の如きはかないものである。

過去に固執するのは老人であり、青年は、未来をめざしていきていかねばならない。現当二世とhさ、現在から未来をめざすことである。過去はぜんぶ変じて、これからの人生の躍動の源泉になっていくのだ。信心には老若の差がない。

人生哲学
  秀吉も英雄である。彼は彼なりに自分で実践のなかから、ひとつの哲学をつくっている。彼は栄誉を得、出世したいから、どう生きたらよいかを、自分で」生み出した。自分の目的を達成しよう、と思っての人生観、処世術である。大聖人の哲学を根底にした場合に、英雄などのよいところを参考にすることはいい。

自己も幸福になり多数の人も幸福に、その理念と実践が、われわれの哲学である。だから秀吉と、われわれとは広さも深さも違う。妙法を持った者が、新時代の本当の英雄であり、指導者なのである。

調和
  西郷隆盛は”功労には禄をもって報いよ。後進であれ、人材は抜てきし、常に適材適所でゆけ”といった。指導者は人材の駒のおき方、時代の流れを如実知見して、常に大局観からみおろしてゆけ。けっして自分の感情だけで近視眼の行動であってはならぬ。

新聞の英雄
  同じ仕事をしていくのにも、その背景に理念がないとくずれてしまうものだ。英国の新聞王ノースクリフは八つの時から、新聞の印刷機械に興味を抱いており、のち英国の政界に、ひじょうに大きな影響力をおよぼすほど隠然たる勢力をもつ、”新聞の英雄”となった。彼はイギリスのナポレオンとも呼ばれた人で、どんな苦難があっても、けっしてだれとも妥協せず、その信念を貫き通した人物である。たとえどのような難関にぶっかっても、初志を貫徹した。信仰でないにせよ、どんなに小さな思想でも生涯、貫き通した人は偉い。退転したり、途中でくじけてしまうのは、いちばんだらしがない。

油断大敵
  ナポレオンは第一戦に負けたとはいえ、エルバ島を脱出し、わずか三か月で二十万という軍勢を結集し得た。ただひとりの理念でも、目的観に燃えたその姿には何万、何十万と共鳴してくるものである。指導者の一念をあらわしたものだといえよう。

ナポレオンは、一八一五年六月に英国のウエリントンとプロシャのブリュッヘルの率いる連合軍のために”ワーテルローの戦い”で敗れた。あの戦いは、たった三人で勝負が決まったともいわれている。ナポレオン、ウエリントン、そして最後の一人はナポレオン配下の将軍に間違った道を教えた百姓である。

その時、ナポレオン軍はたったひとり、ネイという将軍の油断から全滅してしまった。ネイ将軍の到着が三十分早かったならば、戦いはナポレオン軍の大勝利に終わったかもしれない。その理由は途中で百姓に道を聞いたのだが、それがスパイで、まんまとひっかかってしまったといわれている。ちょっとした油断である。そのために、それまではすべて指図通りにいっていたが、最優秀を誇っていた騎兵隊が泥沼にはいりこんでしまった。”まさか”というネイ将軍の心が、このような結果を招いたのだ。

”いくさ”とはそういう場合もある。それほど指導者というのは大事なのだ。皆が最も信頼し、尊敬している将軍である。自分が間違えば、ぜんぶを裏切るという結果を招く、油断大敵だ。百姓はフランス人であった。そのスパイ行為は獅子身中の虫だが、指導者は、それが見分けられなければならない。

気力

 チャーチルは空襲で、弾丸が飛び交う中を、まりを空へ投げながら、ゆうゆうと街をあるいて行った、という話がある。”心配するなよ、かならず勝ってみせる”という大将の心意気を民衆に見せたのである。これは後世の作り話かもしれないが、それが最高幹部の気構えでなくてはならない。そういう気力で天下をのんでいかなくてはならぬ。

大器と勇気と知恵
  戸田前会長は、幹部に対してこんなにまできびしくなされなくても、、、、、、と思われるほど、きびしすぎる時があった。特に青年に対しては厳格に訓練された。戸田前会長は、よく”瀬戸内海で生まれ、玄界灘の荒波にもまれたタイは肉がひきしまっていておいしい”との例を引かれた。人間もおなじである。青年時代にうんと訓練を受け、鍛えられなければならない。武田信玄は”人は堀、人は石垣、人は城”といったが、学会は人材の城である。およそ大人物には三つの要素がある。すなわち、大器と勇気と智慧である。どんなにほめられようと、けなされようと、淡々と難問題を処理してゆくー  三要素兼備の人たれ。

子弟
  ひとりだけ、偉くなっていく行き方は独裁である。独裁者の本質は、自分が弱いから、権力や財力をもって、強さをみせ、他を愚者として見下ろしてゆくのである。

   [check]仏法は子弟不二である。独裁とは根幹的に違っている。同じ仕事を、同じ境涯で、同じようにさせていくことである。だからほんとうの民主主義だ。しかし、俱体俱用(くたいくゆう)で中心の当体は必要になってくる。

   [check]師匠は、弟子を自分と同じ境涯にし、それ以上にしようと、指導するものである。これが世法の世界と、仏法の世界すなわち学会との根本的相違である。大勢の意欲的な指導者をつくるのだから、世間の常識からいえば、わざわざ派閥をつくっているようなものだ。だからこそ、信心が根本であり、他の世界では、まねのできない、幅広くて偉大な前進ができるのである。

士気
   [check]どんなりっぱな組織が整っていても、士気が上がっていないところは負ける。士気が上がっているところはなにをやっても勝つ。
   [check]士気とは、信心ともいえるし、生命力とも、呼吸とも、調和ともいえる。過去のさまざまな歴史、運動、選挙等々、ぜんぶ同じことがいえる。

”批判”
   [check]信心がすすんでいる人は批判などしない。むしろ、人のことを心配し、思いやりがある。批判をしている人は信心の止まっている証拠である。戦いのマトがなくなって、前進していない証拠である。

   [check]弱い根性を、題目をしっかり上げて境涯を開いていくのだ。ひとの批判ばかりしているのは、魔の存在である。

   [check]御本尊を誹謗しても罰が出ないのは、一時的な現象である。目先だけを見れば、そういう人もいるかも知れぬ。しかし、人生は長い、一生涯をつうじてみるべきであろう。また臨終をみなければわからない。御本尊の悪口を言い、学会に叛逆した者で、幸福になった人はいまだ一人もいない。

一生成仏

  生身であるから、病気をすることもあろう。だが、所詮は”毒を飲まされても、なを御本尊を疑わない”という而強毒之(にごうどくし)の信心が大事である。交通事故にあおうが、物を盗まれようが、御本尊の功徳は絶対だと確信してゆくことだ。これがほんとうの信心である。目先の御利益や、罰に追われている人は、大目的を忘れて、当面の問題に幻惑された人である。

  信心の目的は、どこまでも一生成仏である。一生成仏とはなにか。因果俱時(いんがぐじ)であり、受持即観心(じゅじそくかんじん)である。御本尊様を受持しきることしかない。具体的な行動面においては、信心を根本として、最後まで学会に離れずついてくることであり、人生を楽しく生ききって行ける 生命力の涌現(ゆげん)だ。結局悔いのない信心をすればよい。”策”ではない。

  ”ひとたび題目を唱えれば大福運が具わる”ということ。

  題目を唱えれば、もう成仏の資格はある。しかし、大聖人のおおせどおりに、信心修行をまっとうしなければ、一生成仏したとはいえない。だから、ひとたび題目を唱えれば、刹那成道(せつなどうじょう)は得られるけれども、 [check]永遠の絶対的幸福の確立をしきるためには、そこに仏道修行が必要なのである。

順調

  学会は、いま順風に帆をあげた船のようなものだ。”おごる平家は久しからず”になってはいけない。順調な時に、最悪のことを考えて、すべての面で、節約していけるようでなければ、長つづきはしない。

社会人

   [check]一般社会にあって、学会をかさにきたり、傲慢であったりしては決してならない。学会員は仏法の世界に於いても、世法の世界においても、もっとも模範的な行動をしていくべきだ。そのことを自覚して、責任ある行動をとっていかなければならない。

  [check] 学会員は、皆、日蓮大聖人の仏法を奉ずる信者であるとともに、立派な社会人である。しかも、大聖人は、一切法はみなこれ仏法であると説き、ゆえに、学会員は、だれよりもすぐれた、りっぱな社会人として生きるべきである。その信念を強く持ち、仕事のうえにおいても、絶対に人に勝ち、周囲の人々からも尊敬され、信頼されていくようでなければならない。

性分

  [check] ”三世改まらざるを性と云う”とある。性分は変わらないものだ。川に譬えていえば、川幅などは、あまり変わらない。これは変わらない性分にあたる。そこで、信心による人間革命、宿命の転換ということは、その川が泥水であるか、清浄であるかという問題である。

   [check]宿命的な性格、おとなしいとか、気が強いとか、そういう本然的なものは変わらないが、悪いものは、ぜんぶ浄化される。それが人間革命になり、宿命転換になるのである。

年齢

   [check]人生は、生命力をみなぎらせて、元気で楽しく生きるべきである。年齢とは、その人が、どれだけ充実しきった人生を、生きたかによってきまる。いくら長生きしても、病気で寝ているだけの生涯では、生ける屍も同様である。どれだけ仕事をしたかが、その人の真の年齢になる。これはその人の人間としての価値の問題である。

嵐の翌日

  [check] 病気は悪くなったときが大事である。そのとき、自分の弱い心にも、敗けてはいけない。それを乗り越えて行くのが病魔との勝負だ。大自然の天候でも、アラシのあくる日は、かならず晴天である。ほんとうに苦しい場面にぶつかって、それを勇敢に乗りきったあとは、爽快な気分になる。障魔(しょうま)を打ち破って始めて境涯がひらける。不思議な仏法の原理である。

民主主義

  学会の世界は、外からみると鉄のカベで囲まれた世界のように見えるそうだ。なかへはいれば、これほど自由で、明るく、伸び伸びした世界はないという。結局、これほど真実の民主主義の世界はない。逆に、外の世界は、自由なようで、じっさいは堕落か、封建的かのどちらかである。形式と実質の相違である。

根性

  根性の有無について、最近、盛んに論じられているが、強盛なる信心が、最高の根性である。信念も、精進も、行力も信心に含まれているからだ。強く正しい人生を生きていく根性も、題目をあげれば、自分の中から出すことができる。

  性質とか、人柄とか、先天的なものは、かならずある。なんとなくやさしい感じの人、なんとなく意志の強そうな人と、宿命的なものもある。しかし、一度、因果具時(いんがぐじ)のこの大仏法を護持する時、幸福への生命活動は、自己の宿命を打開し、あらゆる力を出すことができるのである。だから御本尊様が人生に絶対に必要なのである。

 水滸会のとき、源平の合戦について、戸田前会長に”切ったり、射ったりするのは、こわくないのでしょうか”とうかがったところ”ほんとうの人生を知っているなら、こわいのがあたりまえだ”といわれた。こわいというのが人間性である。こわくないというのは非人間性である。戦争はいけないと思うことが当然で、そのために厳然と戦いきれる根性をもてば、その人は、いちばん強い人である。もわいものはこわい。こわくないものはこわくないと、キチンとわかっていて信念をもっている人は強い人である。人間らしい人間である。御本尊をたもつ者は、もっとも勇気を必要とする。

真の勇者

   [check]”ひとり立てる時に強きものは、真の勇者なり”時代に迎合し、名聞名利(みょうもんみょうり)を願い、惰性に流される人は、どんなに強そうに見えても弱者である。その精神を一生涯、死ぬ瞬間までもち続けた人が、ひとり立てる真の勇者だ。

   [check]”石に矢の立つためしあり”の一念が万事遂行の原動力と思え。ひとり、ふたりの青年が真剣になれば、その息吹は、燎原の火のごとく広がっていく。その精神がなければ、どんなに策や方法を考えても、なんにもならない。一切の源泉は青年の熱と力である。

毎自作是念

   [check]仏は、一切衆生を成仏させることを毎自作是念している。学会の幹部は、いかに会員を幸福にするか毎自作出是念してゆく責任がある。実業家は、仕事に没頭していることが毎自作是念(まいじさぜねん)であり、学者が、寝てもさめても研究のテーマが、頭脳にきざみつけられているのもおなじである。だが幸福は、信心による毎自作是念によって得る以外にない。

世間の風評

  世間の風評ほどあてにならないものはない。ほめられようがけなされようが、そんなことに粉動されては絶対に損だ。人からほめられて、そんなことですぐ増長し、いい調子になり、足をさらわれるような人は、軽薄な人物である。

  話は一つの基準を持って聞け。そうすれば、はったりもあれば、うそつきもあれば、自己擁護の場合もあれば、過大的な表現もあれば、策略もあることがわかる。しかし、純粋な信心で聞けば、それらに粉動されないで、正しい判断ができる。

勝敗

   [check]いくさに臨んで、大局を忘れ、人情や義理や遠慮に流されたら敗北する。指導者は毅然たる態度で指揮をとっていくべきだ。徳川家康は、若干十八歳で初陣し、見事に勝った。又今川義元の軍勢が京都にのぼる途中、義元が桶狭間で信長に敗れたときには、彼は今川勢に加わっていたが、さっと引き揚げてしまい、一兵も失わなかった。この家康を幼少のころから訓育した雪斎和尚は”どんなことがあってもいくさはかたなければならぬ。負ければ一族ぜんぶが滅亡してしまう。どんなに苦労してもいくさには必ず勝て”とそのことばかり徹底的に教えたという。 [check]仏法は勝負である。この気持ちを瞬時もわすれてはいけない。

弱さ

   [check]多くの武将の中で、いちばん部下を大事にしたのは徳川家康である。”情”で大事にし過ぎ、失敗したのが秀吉である。徳川家康は一九歳の時に”人間味だけでは人は引っぱれない。これは自分の弱さだ。弱さを見せると、葛藤を起こさせると悟った”という。この家康の考えが、ぜんぶよいというのではないが、一理はある。いくさには絶対弱さをみせてはならない。

運が悪い

   [check]豊臣秀吉に降参した一武将が、彼の前に連れてこられたとき、”お前は運がよい男か悪い男か”とたずねられ、”自分は運が悪い”と答えた。それを聞いた秀吉は”そういう運の悪いものを用いるわけにはいかない”といって、その武将を最後まで用いなかった。当の武将は、のち石田三成に味方し、関ヶ原の戦いに敗れて死んだという。

   [check]”依正不二”という仏法の原理に照らしてみれば、身近に接している人に、不運な人、悪人達が集まってしまったら、大将自身も福運がなくなってしまう。

人間的

   [check]信長・秀吉・家康の三人のうちでは、秀吉がもっとも人間的であったといえる。だが、これからの新時代は、新しい指導者は”法妙なるが故に人貴し”(御書一五七八ページ)の原理で、私たち自身がつくっていくのである。これら三人の型の利点は含まれるし、その人その人の特徴を生かしてゆけばよいのだ。英雄の異常な型を無理してまねる必要はない。

   [check]人間のほんとうの偉さは、妙法を基準としなければ決定できない。有名人であるとか、ないとかということは、ちょっとした調子で決まるのだ。人間性豊かな哲学をもった指導者にならなければならない。

七種類の妻

   [check]小乗教に七種類の妻があると説いている。「世間に七種類の婦あり、一婦は母の如し、二婦は妹の如し、三婦は善知識の如し、四婦は婦の如し、五婦は婢の如し、六婦は怨家の如し、七婦は奪命の如し」(阿含部・玉耶教)と。 [check]母のような妻、妹のような妻、友達のような妻内助の功厚き妻、献身的で女中のような妻、以上五つはまだよい。あとは悪鬼のような妻、それから主人を殺していくような妻で、この二つはこわい。

悩み

   [check]誰にも身近に悩みはある。悩みがあるというのは実相である。永久になにも悩みがないということはありえない。その悩みを見おろしていけるようになってしまえばいい。それは信心の力しかない。悩んだからといって誰も得はしない。悩みが御本尊と直結し唱題となり、信心の強さになれば、そこから宿命転換にかわっていくのである。それが煩悩即菩提だ。

大歓喜

   [check]どんなに頭がよくても、明るく楽しくなかったら損だ。これが信心の極意であり、”歓喜のなかの大歓喜”(御書788)と仰せられたゆえんである。歓喜とは自分の喜び、大歓喜とは人まで救っていく喜びである。

西洋哲学と仏法

  「西洋哲学はオモチャのサーベルみたいなものだ」と、戸田前会長がいわれたことがあった。たしかに、その通りである。マルクス主義やプラグマティズム、カント哲学にせよ、ヘーゲル哲学にせよ、あるいは分析哲学、実存哲学、現象派等々、いずれも一応は形も整っており、理論の組み立ても精密である。恰好だけは立派だ。だが、それによって人間革命もできないし、よのなかの不幸を除くこともできない。何の使いものにもならなかったではないか。東洋哲学の真髄である大聖人の仏法は、生活の上に、現証として厳然とあらわれる哲学であり、実践の裏づけのある、生きた哲学である。個人においても、社会においても、悩み、不幸を断ち切ることのできる、真の利剣である。

頭の良さ

  記憶がいいと自慢できる人は少ない。記憶も努力である。いわんや題目をあげて努力した場合には、ぜんぶ自分自身のものになる。それが人間革命である。

   [check]大きく分けると、福運のある人と智的な人と二つにわかれる。大聖人は、題目をあげれば、福運もわく、智慧もつくと仰せだ。福智ともに南無妙法蓮華経である。それを自覚して、宇宙即我だから、根本の御本尊に対して題目をあげた場合、宇宙大の智慧も、宝もぜんぶわが身に涌現してくるのである。

あまりにも偉大な大生命哲学、学会の深さ、前進の早さと、自分を比べるから、なんとなく遅れているような気がする。そこで、負けずに成長しようと決心するのが人間革命でもあり宿命転換でもある。

自信をもつことである。センチメンタルになったり、卑屈になったのでは、信心は伸びない。どんな立場でも、役目があり、最高の仏法をたもっているのだから、最高の人生が送れないわけがないと確信すべきである。

よく戸田前会長は一本の線を引いて”頭がいいといっても、この線の上か下の問題で、どうということはない。あとは努力で押し切る者が勝つといわれた。 [check]”天才とは努力なり”という有名な言葉もある。一生懸命勉強し努力していこうではないか。

いまの世の評論家や、学者等は頭がいいと思いこんでいる。だがそれは単なる理論の技術だ。下駄屋さん、お百姓さんの技術と何等かわりない得意のものだ。それに相対してみれば、学会の幹部の方が、どれほどか幅広く勉強しているか知れぬ。錯覚を起こして学者を特別なふうにみたら、大きな間違いで、そんな考えでは宗教革命、文化革命はできない。

下駄屋さんは下駄屋さんで、ものすごく天才の人がいる。事務員は事務員で、有能な記憶力のいい、賢明な人がいる。それでいいのだ。皆それぞれの立場で一芸にひいでていけばそれでよい。

書くこと

  書くことに自信のある人は、いないといっていい。だれにも、悩みはあるが努力することだ。人よりも一歩先んじて、進んでいくためにも、勉強し、努力することだ。それによって偉さが決まるものだ。トルストイは、ひとつの文を書くのに、この文は後世に残るものだと、何枚も書きなおして、二行、三行と文章にしていったといわれている。あれだけの大文豪であっても、そうである。

   [check]ゲーテは”自分がいいたいことを、あまりにも飾っていおうとするから、いえなくなってしまうのだ”ということを述べている。ありのままに、自分のおもったままにいえば、なんにも苦しむことはない。

思ったままを書くということは、苦しいことではない。そこに虚偽や虚栄をもったり、また自分をなんとか売ろうと思ったり、そういうために苦しむ場合がある。


  ”声は生命である。人の心の琴線にふれるような話をする人がいる。それは、ことば以外に、多くの蘊蓄(うんちく)のある思想があるからだ。そのことばには、余韻を感じさせるものがある。

学会批判
  もっとも増上慢なのは、現代の指導者たちである。なぜかならば、われわれは朝夕、日蓮大聖人の仏法を心から信奉し、謙虚に学び、そして民衆の味方となって実践している。その我々を批判している彼らは、どれだけ日蓮大聖人の仏法を知ろうという謙虚な心があるだろうか、増上慢の限りである。

政治家や評論家が、どれだけ民衆の救済をしたか、皆利用であり、金儲けにすぎない。政治や評論家といっても、生活の道具にしているのではないか。われわれは、宗教を生活の道具などにしてはいない。また彼らにほめられる必要もない。”愚人にほめられたるは第一のはじなり”(御書237P)だからである。悪口を言っている人間などは、ぜんぶ利害の関係で批判したり、それを生活の糧にしていることを見破ってゆくべきである。

生の意見・死の意見

  意見には、”生の意見”と”死の意見”がある。生の意見とは、個人的感情にとらわれず全体観に立ち、協調性のある意見で、明るく実行し得る、建設的な意見のことである。反対に同じ意見であっても人を傷つけ、相手に対して強圧的に感じさせ、または、ぐちっぽくなったり、皮肉めいてとられる場合は、死の意見である。これは破壊的な意見である。あの人が提案するちとなんとなく明るく、感じがよい、協力せずにはいられない、という論議であるならば、それは”生の意見”であり、指導者としてふさわしい発言であるといえよう。

成長

  指導力をつけよ、といっても一朝一夕にできるものではない。もし、言葉だけで自己が変わり得るならば、信心する必要はない。歴史始まって以来、少なくとも過去三千年来、あらゆる修養の本が残されているが、修養で成就できるならば、既に人類は、すべて人格者になり、包容力をもち、幸福になっていなければならないわけである。

  そうなりえない原因に人間の宿命の問題がある。 [check]妙法を根幹としてのみ、初めて宿命打開があり、 [check]人間革命ができるのである。人から注意され、修養で一時的に自分の欠点をおさえることはできても、根本的にはなおらない。題目をあげていけば、自然に人間革命されてゆくのである。

  青年で、力もある、分別もある、包容力もあるのは、理想かもしれないが、必ずしもその必要はない。青年は未完成である。故に未来があり、成長があるのだ。少しぐらいの欠点があっても、青年らしく猪突猛進する勇気と情熱がなければならない。顔色がよく、あの人に任せれば安心だといわれるようになれば、それが無言の指導となる。同志を少しでも信心強盛にしたい。幸福になってもらいたい、また責任をまっとうしたいと願ってゆくことが指導力である。才覚や政治性のみを真の指導力というのではない。

先手
  物事を深く広く考え、前進させてゆくことが、指導者の責任である。指導者は、常に目的達成のために、事前に手を打たねばならない。しかもその内容は、斬新で、全体が向上し、より良くなるためのものであり、形式なく、価値創造であることが望ましい。

  人に会ったときには、必ず未来の楽しみを与えていく。とくに青年に対しては、希望を与え、夢をえがかせていけないようでは、真の指導者たりえない。

境智の二法

  境智(きょうち)の二法からみても、指導者に力と確信と英知があれば、対境(たいきょう)である人々にも確信と力がわく。指導者自らに感激なく、ただ義務的に話している場合、聴衆は倦怠をおぼえる。事務的な態度で臨めば、やはり事務的のみの人を作る。ぜんぶ境智の二法であり、指導者が成長すれば、全体が必ず成長するものだ。それには、指導者は人より一歩進んで努力と勉強を積んでいくことが必要だ。

ダメ主義

  指導するのに、相手に対して、だめだ!だめだ!というダメ主義は指導にはならない。相手が聞きたいのは、 [check]具体的解決法で、だめだという評価を求めに来ているのではない。こうすればいいと、むしろ自信をもたせることが、賢明な指導者の行き方といえる。

  

  

 
  

  

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