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三災七難(さんさいひちなん)
三災とは、 大の三災、小の三災があり、
大は火災、風災、水災である。
小は穀貴(こっき)_五穀の価が高いこと、すなわち物価高騰。
兵革(ひようかく)_兵は剣等の武器、革は甲冑(かっちゅう)の意、戦争のこと。
疫病(えきびょう)_伝染病、流行病がはやること。肉体的病ばかりでなく精神分裂症、ノイローゼ、思想の混乱なども疾病の一つである。
七難は経文(きょうもん)により多少の災はあるが、いま薬師経の七難をあげれば、
人衆疾疫(にんしゅうしつえき)の難_伝染病、流行病がはやり多くの人が死ぬ難。
他国侵逼(たこくしんぴつ)の難_他国から侵略される難。
自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難_仲間同士の争い、同士打ちをいう。
星宿変怪(せいしゅくへんげ)の難_星等の天体の運行に異変があったり、彗星があらわれたりする。
日月薄蝕(にちげつはくしょく)の難_日食月食
非時風雨の難_季節はずれの暴風や強雨
過時不雨の難_雨にはいってもなお雨が降らない天侯の異変。
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三災七難(さんさいひちなん)
三災とは、 大の三災、小の三災があり、
大は火災、風災、水災である。
小は穀貴(こっき)_五穀の価が高いこと、すなわち物価高騰。
兵革(ひようかく)_兵は剣等の武器、革は甲冑(かっちゅう)の意、戦争のこと。
疫病(えきびょう)_伝染病、流行病がはやること。肉体的病ばかりでなく精神分裂症、ノイローゼ、思想の混乱なども疾病の一つである。
七難は経文(きょうもん)により多少の災はあるが、いま薬師経の七難をあげれば、
人衆疾疫(にんしゅうしつえき)の難_電線病、流行病がはやり多くの人が死ぬ難。
他国侵逼(たこくしんぴつ)の難_他国から侵略される難。
自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難_仲間同士の争い、同士打ちをいう。
星宿変怪(せいしゅくへんげ)の難_星等の天体の運行に異変があったり、彗星があらわれたりする。
日月薄蝕(にちげつはくしょく)の難_日食月食
非時風雨の難_季節はずれの暴風や強雨
過時不雨の難_雨にはいってもなお雨が降らない天侯の異変。
国に三災七難が競い起る原因については、
仁王経(にんおうきょう)にいわく_もし一切(いっさい)の聖人(しょうにん)去らんときは七難必ず起らん。
大集経(だいしつきょう)にいわく_若し国王有って無量世(むりょうせ)に於いて施戒慧(せかいえ)を修すとも我が法」の滅せんを見て捨てて擁護(おうご)せずんば是(かく)の如(ごと)く種(う)ゆる所の無量の善根(ぜんこん)悉く(ことごとく)減失して其の国当(まさ)に三の不祥(ふしょう)の事有るべし、一には穀貴(こっき)、二には兵革(ひょうかく)、三には疫病(えきびょう)なり。
立正安国論
世(よ)皆(みな)正(しょう)に背(そむ)き人悉(ひとことごとく)く悪(あく)に帰(き)す、故に善神(ぜんしん)は国を捨てて相去(あいさ)り聖人(しょうにん)は所(ところ)を辞(じ)して還(かえ)りたまわず、是(こ)を以て魔(ま)来たり災(さい)起り(きた)難(なん)起る言わずんばある可(べ)らず恐れずんばあるべからず。とあり、これらの災難から国を救う方途について、立正安国論にさらに次のようにおおせられている。
如(し)かず彼(か)の万祈(ばんき)を修せんよりは此の一凶(いっきょう)を禁ぜんには。
唯須(ただすべから)く凶(きょう)を捨てて善(ぜん)に帰(き)し源を塞(ふさ)ぎ根(ね)を裁(たつ)べし。
謗法(ほうぼう)の人を禁(いまし)めて正道の侶をい重(おも)んぜば国中安穏にして天下泰平(てんかたいへい)ならん。
早く天下の静謐(せいひつ)を思わば須(すべから)く国中の謗法を断つべし。
夫れ(それ)釈迦の以前仏教は其の罪を斬るといえども能忍の以後経説は即ち其の施を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何(いか)なる難か並び起り何なる災いが競い来らん。
三諦
空仮中の三をいう。三諦の諦とは、審諦(しんたい)すなわち「つまびらか」または「あきらか」という義で、じゅうぶんに実相をみることである。 仏の悟りの真実の理をいう。仮とはいっさいの方法が、おのおのが仮に和合している皮相の面のみを言う。たとえば、咲いている花の姿ののみをみればこれは仮である。いつ散ってしまうかわからない、仮和合のことである。 空とは万法のいっさいの性分のことで、有とも無とも固定できない。有無の二道以外の冥伏された状態、しかも一刹那をとらえればこのどちらかに固定している不思議な実在である。花が芽ぐみ、色とりどりの花を咲かせるその性分、また大宇宙の運行等がこれである。この二面を備えて、しかも動かす事のできない厳然たる本質、これが中諦である。花が枯れても咲いても、その草木自体の本質には変わりないのである。この三が即十如実相であり、法報応の三身である。
相_応身如来_仮諦
性_報身如来_空諦
体_法身如来_中道
五五百歳(ごごひゃくさい)
釈尊滅度の後第五番目の五百年、すなわち末法のはじめのこと。釈尊は大集経(だいしつきょう)に 未来の時を予言して第一の五百年は解脱堅固(げだつけんご)、第二の五百年は禅定堅固(ぜんじょうけんご)、第三の五百年は読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)第四の五百年は多造搭寺堅固(たぞうとうじけんご)、第五の五百年は闘諍言訟(とうじょうごんしょう)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)と定めている。
五陰(ごおん)
三世間の一つで色・受・想・行・識、すなわち人間五体をいう。 色は色形で衆生の肉体、および草木国土である。 受は衆生が外界にあるものをわが身に受けいれること。
想はひとたび受けいれたものをつねに想って忘れないこと。 行はこの想いみよっておこすところの行である。 識は以上のことを内よりおこさせる意識すなわちこころである。
鹿を吠うる犬は頭(こうべ)われず師子を吠(ほ)うる犬は腸(はらわた)くさる。日月(にちがつ)をのむ修羅(しゅら)は頭七分にわれ、仏を打ちし堤婆(だいば)は大地われて入りにき。
三千世界に満つる珍宝なれども命に替る事はなし。
賛する者は福を安明(あんみよう)に積み、謗ずる者は無間に開く。
在在諸の仏土に常に師と俱に生ぜん。
この曼荼羅を身にたもちぬれば、王を武士のまほるがごとく、子をおやの愛するがごとく、魚の水をたのむがごとく、草木の雨を楽(ねが)うがごとく、鳥の木をたのむがごとく、一切の仏神等の集まりまほり、昼夜に影のごとくまほらせ給う法にて候。
浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。 浅きを去って深きに就くは、丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順して、法華宗を助けて震旦に敷揚(ふよう)し、叡山の一家は天台に相承して、法華宗を助けて日本に弘通す。
悪知識と申すは甘くかたらひ詐(いつわ)り媚(こ)び、言を巧みにして愚痴の人の心を取って善心を破るという事なり。
悪積もれば地獄となる、善積もれば仏となる、女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる。法華経供養の功徳かさならばあに竜女があとをつがざらん。
悪の因に十四あり。一に憍慢(きょうまん)、二に懈怠(けたい)、三に計我(けいが)、四に浅識(せんじき)、五に著欲(じゃくよく)、六に不解(ふげ)、七に不信(ふしん)、八に顰蹙(ひんしゅく)九に疑惑(ぎわく)、十に誹謗(ひぼう)、十一に、軽善(けいぜん)、十二に憎善(ぞうぜん)、十三に嫉善(しつぜん)、十四に恨善(こんぜん)なり。
無知の者は此の経を説く者に使われて功徳をうべし。何(いか)なる鬼畜なりとも、法華経の一偈一句をも説かん者をば「当(まさ)に 起(た)ちて遠く迎えて当(まさ)に仏を敬うが如くすべし」の道理なれば仏の如く互いに敬うべし。例せば宝塔品の時の釈迦多宝の如くなるべし。
若し国王有って、無量世に於いて施・戒・慧を修すとも、我が法の滅せんを見て、捨てて擁護(おうご)せずんば、 是の如く種(う)ゆる所の無量の善根、悉(ことごと)く皆減失して其の国に当に不祥の事有るべし。(立正安国論)
若し悩乱する者は頭(こうべ)七分に破(わ)れ、供養すること有る者は福十号に過ぐ。
諸の悪比丘(あくびく)は是(これ)魔の伴侶なり。
文の底とは久遠実成(くおんじつじょう)の名字の妙法を余行にわたさず、直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり。
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