日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

宗教の五網について

宗教の五網について

立正安国論講義、日蓮大聖人御書十大部第一巻  池田大作著より抜粋


五綱(ごこう)とは教・機・時・国・教法流布の先後の五つである。

この五つの条件に適った宗教でなければ、正しい宗教とはいえない。

まずとは、

いかなる教えが最高であり、民衆を物心ともに幸福に導くことができるかを判断することである。この判断の基準は、すでに見てきた三証?五重の相対?によるのであるが、大聖人は教機時国抄の中で、次のように仰せられている。

「所以(ゆえ)に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るはこれを知る者なり、但し光宅の法雲・道場の慧観等は涅槃経は法華経に勝れたりと、清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと、嘉祥寺の吉蔵・滋恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云う、天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず法華経に勝れたる経之れ有りと云わん者を諌暁(かんぎょう)せよ止まずんば現世に舌口中に爛(ただ)れ後生は阿鼻地獄に堕すべし等と云云、此等の相違を能く能く之を弁(わきま)えたる者はを知れる者なり、当世の千万の学者等一一に之に迷えるか、若し爾らば経を知れる者之少なきか教を知れる者無ければ法華経を読む者此れ無し法華経を読む者之れ無ければ国師となる者無きなり、国師となる者無ければ国中の諸人・一切経の大・小・権(ごん)・実(じつ)・顕(けん)・密(みつ)の差別に迷うて一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法(ほうぼう)の者と成り法に依って阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵(みじん)よりも多く法に依って生死を離るる者は爪上(そうじょう)の土よりも少し、恐る可し恐る可し」

日蓮大聖人は、法華経こそ勝れたり唯一絶対なりと知るのが、教を知る者なりとの御断定である。しかして、この法華経とは釈尊の二十八品の法華経でもなく、また像法の天台の摩訶止観でもない。末法下種、文底秘沈の南無妙法蓮華経の七文字の法華経である。この南無妙法蓮華経こそ、末法唯一の教と知ることを教を知るというのである。

機を知るとは、

民衆の機根(きこん)を知ることである、最高の教えである三大秘法の南無妙法蓮華経の大仏法も、正法像法時代には弘めることができなかった。それは一つには、正像の民衆の機根と合致しなかったゆえである。逆に今末法現代において、仮に釈迦仏法が最高だとしても、悠長な歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)では、民衆は納得しないであろう。もしも、そのような修行をするとなれば、社会生活の方が成り立たなくなり、幸福生活を実現することはできなくなってしまう。結局は有閑階級の気休めになってしまうことは必然である。今はやりの座禅ごときは、まったく現代の民衆の機根に合わぬものである。又経文書写や仏像崇拝等も、いずれも前時代的で現代の機根に適合したものとはいえない。

三に、時を知るとは、

現在は正像末(しょうぞうまつ)のうち末法の時代である。釈尊の予言どおり、釈迦仏法の功力(くりき)は失われ、邪宗が横行して五濁悪世(ごじょくあくせ)の相を現じている。民衆は塗炭(とたん)の苦しみに陥(おちい)り、力ある宗教、真実の仏法の出現を待ち望んでいる。このようなにこそ、日蓮大聖人の大哲理が弘まる時であると知ることこそを知るというのである。この時を知ることは、第一の教を知るのとともに、五綱のなかでも特に大切な問題とされている。もれについて明かされたのが、「撰時抄」で、その冒頭に大聖人は「夫れ仏法を学せん法は必ず先ずをならうべしと述べられている。末法現代、民衆の機根は下劣になっているが、自然科学等の発達によって、仏法の深遠な生命哲学が理解されやすくなっているのは、やはりのしからしむところといえようか。

さらに国を知るとは、

日本は実大有縁(うえん)の国である。弥勒菩薩の瑜伽論(ゆがろん)にいわく「東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓(しゅしょう)のみ有り」と。 [#ob3e1aa9]肇公(じょうこう)の翻経の記にいわく、「大師刷や須梨耶蘇魔左の手に法華経を持し右の手に鳩摩羅什(くまらじゅう)の頂を摩で授与していく仏日西に入って遺耀(いよう)将(まさ)に東に及ばんとす此の経東北に縁有り汝(なんじ)慎(つつし)んで
伝弘(でんぐ)せよ」と。この予言通りに、日本は日蓮大聖人御建立の一閻浮提(いちえんぶだい)総与の大御本尊がまします国である。しかも大聖人は顕仏未来記(けんぶつみらいき)等に、この大仏法が中国・インドへと帰ると予言されており、現にわれわれ創価学会員のてによって、一歩一歩それが現実となっている。このように、日本国こそ、大仏法建立の国であると知るを、国を知るというのである。

最後に教法流布の先後とは、

教機時国抄にいわく「五に教法流布の先後とは未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり必ず先に弘まれる法を知って後の法を弘むべし先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫(がりゃく)を捨てて金珠(こんじゅ)を取るべし金珠を捨てて瓦礫を取ること勿(なか)れ」わが国では、華厳、法相の権大乗が奈良時代に弘まり、法華経迹門(ほけきょうしゃくもん)が平安時代に広宣流布された。しかるに、権大乗の真言、浄土宗が、この後に弘まって、国を乱し、民衆を苦しめたのである。しかも明治以降は、外道たる、まったく低級な神道を尊重したので、ついに亡国の悲劇を招いたのであった。一度、法華経が流布した以上、次に流布されるべき仏法は、法華経独一本門の大法でなければならない。これを、教法流布の先後というのである。日蓮大聖人御一代の教えをみるに、そこには厳然と教法流布の先後の義が明かされている。すなわち大聖人の仏法は三大秘法であるが、まず本門の題目が流布せられ、ついで大御本尊の御建立があり、第三の本門戒壇の建立を滅後に予言されたのである。大聖人の立宗より七百有余年、今や題目は全国津々浦々に完全に流布された。しかして、現在は題目は流布されたが、日蓮宗各派が乱立して、本尊雑乱(ほんぞんぞうらん)の時である。わが創価学会はこの本尊雑乱を正し、三大秘法の御本尊を流布しつつ、本門戒壇の建立をめざしているのである。、、、中略 日蓮大聖人、報恩抄(329p)にいわく、 [check]日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながる(流布)べし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」と。すなわち、日蓮大聖人御建立の三大秘法は、、、、、をもって完全に終了するのである中略、これによって、大聖人の三大秘法の威光は一段と輝きを増し、末法万年尽未来際までの平和楽土が実現されるのである。

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