日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

法報応の三身常住

       すばらしき仏法の教え 



法報応の三身常住 第二節(この節は戸田先生が御書十大部講義第二巻開目抄上”昭和二十八年七月一日発行”165ページに、法報応三身常住をおのべになったものである。

法身の無始無終は説けども報身応身の顕本は説かれずとは、法身の無始無終は一応仮説的なものである。いまだ生命の実相を説き切ったものとはいい切れない、宇宙は常住である事は誰でも一応思う事であるが、その宇宙に仏が現象として常住するということは観念的なものである。涌出寿量を除いた以外の経文は、どれもこれも涌出寿量の二品の法報応三身常住を説く前提であって、いまだ真実を説くものではない、この三身常住を哲学的に説くならば、次のごとくではあるが、これはなかなか信じられない所のものである、信じられないからウソだともいえないし知らないから無いともいえないであろう、真実の仏教が説く所の三身常住は生命の実相であってこれこそ真の我らの生命の状態である。吾人が今ここにこの境涯を説くといえども読者がこれを諒承するためには、日蓮大聖人の所立の三大秘法の仏法に帰依しなくては、絶対に証得する事が出来得ないであろうという事を附言しておく。
[check]結論的にいうならば、吾人が今持つ所の肉体そのものが子供の時より老人に至るまである傾向に随って変化するごとく、我らの今日の肉体と精神が永遠に変化しつつ実在することが法報応三身の常住で無始無終の生命観である。
まず我らの肉体の変化について観察してみよう、我々は一瞬一瞬に肉体的にも精神的にも変化しつつ、運命のコースをたどっている、精神的な問題と運命の問題は別にして、肉体の問題のみを論ずるならば、一瞬一瞬に細胞の増衰が行われて、そして七年間も過ぎれば生理学上、目の玉の芯から骨の髄の細胞まで一新するといわれている。この肉体の変化は、精神とか運命とかを根本として変化したものではなくして、我らの生命自体の働きによって変化してきたものである。その生命というものに、一貫した傾向を見る事ができる、もし生命即ち変化させる根本の原動力に定まった一つの傾向及び本質が無いとするならば、七年間の変化の中に長い指が短くなったり目が小さくなったり形が変って鼻の低いのが高くなったりするはずなのに、大体赤ん坊の時を基準とした細胞の増衰にすぎない、しかも三十の時に何かの事件を起こしたとして、それに対する責任は法律に関するとせぬとにかかわらず四十になっても五十になっても、負わされている事は事実である。単に肉体論から言うならば、三十七になれば全然別な肉体になっている、七年前の責任を負う必要がなくなるではないか、忘れたという事よりは没交渉になってよいはずである。如何となれば脳の細胞も一変しているからである。しかるにその責任は全然別個になった肉体がこれを負い、又その責任を感ずるのである。これは生命の連続は肉体と精神活動とを同じくその連続に関連を持たしているからである。
[check]生命とは心肉不二にして肉体にも非ず心にも非ず、しかして肉体と精神に絶えず反応を与えるものである、目に見えないで存在し、しかして目に見える肉体と精神と運命に強くはっきりとにじみでるものである。

我々の生命は永遠であるとすればこの世の中でで死んで、又次の世で生命活動がなければならぬ、他の宗教では次の世の生命活動を西方の浄土世界とか天上界とかいうような架空の世界観を作ってそこで生きているという、これは法身論の生命観であって事実の生命観ではない、次の世に生まれてくる世界は、我らが今日生活していると同様の娑婆世界である然らば世間で生まれ変わってくるというあの事かと思うであろう、事実はよく似たものであるが、生まれ変わるとなれば全然別個の人間とも考えられる、然し全然別個ではありえないのである。では同じ人かというに同じ人でもないのである。あたかも七歳のAなる人と四十歳のAなる人とは物質構成、精神活動、運命等は全然別個でありながら、七歳のAと四十歳のAとが、同一なりと断ずるが如きものなのである、今世のAと来世のAとは生命の連続においては同一生命の連続であって、肉体にもせよ精神にもせよ運命にもせよ、今世のそのものではない事は勿論である。それは七歳のAの場合と四十歳のAの場合と同様である。
七歳のAが四十歳に至るまで生命の連続であると同様に、肉体も精神も運命も変化の連続を成したごとく、今世の生命が来世の生命に至るとすれば、今世の肉体・精神・運命が来世へと変化の連続をなすことは当然である。ここに大きな疑問が一つ生ずる、死んで火で焼いてなくなった肉体が死後までその肉体の連続であるという事はありえないではないかという事である。そこで肉体にもせよ精神にもせよ運命にもせよ、目に見ることのできない、しかも厳然たる存在の生命の反映であると、先にのべたことを記憶より呼び覚してもらいたい、さてその前にいかような状態において生命が来世に連続するかという疑問をのべてみよう、我らが死ねば肉体の処分にかかわらずわれらの生命が大宇宙の生命へとけこむのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である、この大宇宙の生命体へとけこんだ我々の生命は、どこにもありようがない、大宇宙の生命それ自体である、これをというのである。空とは存在するといえばその存在を確かめることができない、存在せぬとすれば存在として現れてくるという実体を指しているのである。「有る」「無い」という二つの概念以外の概念である、たとえてみれば「貴方は怒るという性分を持っていますか」と問われた時に「持っております」と答えたとする、しれなら「その性分を現わして見せて下さい」といわれても、現わしようがないから「無い」とどうようである、「有りません」と答えたとしても、縁にふれて怒るという性分が現れてくる、かかる状態の存在を空というのである、 [check]我らの死後の生命もこの空の状態の存在である、されば縁にふれて五十年、百年または一年後に再びこの娑婆世界に、前の生命の連続として出現してくるのである、さてその生まれ出た肉体は過去の生存、過去の死の状態を通して連続してきた生命を基として宇宙の物質をもって構成されてくる、時間的の差異はあったとしても生命が連続である以上肉体も精神も運命も過去世の生存の連続であると断ずる事ができるのである。あたかも碁を打つ人が一日打って半局しか打ち切れない、そして明日にしようという事になって碁石をバラバラにしてしまって、もとのように箱に納めてしまう、次の日二人が又碁盤を囲んで昨日打ち終わった所まで、昨日と同様に白黒と碁石を配置する、そして昨日の続きを打ってゆくようなものである。
[check]生命が過去の傾向を帯びて世に出現したとすれば、その傾向に対応して宇宙より物質をあつめて肉体を形成する、故に過去世の連続と見なす以外にないのである。このように現在生存する我らは死という条件によって大宇宙の生命へととけこみ、空の状態において業(ごう)を感じつつ変化して、何らかの機縁によって又生命体として発現する、このように死しては生まれうまれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である。

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