日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

寿量品

       すばらしき仏法の教え 



抜粋させて頂いています。


寿量品  池田名誉会長講義 寿量品ー1 [#pf050060]

生命のドラマ・如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)

  「生きる」ということーそれは最大の神秘です。最大の不思議であり、謎でありロマンです。
この人生を「生きる意味」とは何か。我が生命の「本来の姿」とは何か。われわれは「どこから」来て、「どこへ」行こうとしているのかー。これは、人間としての最も根本的な問いかけでしょう。
どんなに物質的に豊かな生活をしていても、どんなに楽しく遊んで暮らしても、この根源の問いから目をそらしていては、真実の幸福も充実感も得られません。この根本の問いに答えたのが、法華経の如来寿量品第一六です。

寿量品には何が説かれているのか

  まず、如来寿量品には、いったい何が説かれているのでしょうか。端的に言えば、 [check]「永遠の生命」が説かれています。

寿量品には何が説かれているのか

  まず、如来寿量品には、いったい何が説かれているのでしょうか。端的に言えば、「永遠の生命」が説かれています。
「寿量」とは”寿命(じゅみょう)を量(はか)る”ことです。仏の寿命が”無量”であると明かしたのが寿量品なのです。しかも、大切なことは、釈尊が自分自身の生命に即して「永遠の生命」を説いたということでs。「永遠の生命」は決して抽象論ではありません。また、架空の話でもない。釈尊自身の”体験談”なのです。
この”体験談”の要旨を言えば、こうなります。
  多くの人は、私(釈尊)が若くして出家し、修行して、伽耶城(がやじょう)近くの菩提樹の下で成仏したと思っているであろう。しかし、そうではないのだ。私は、実に、五百塵点劫(ごひゃくじんてんこう)という考えも及ばないはるかな昔(久遠くおん)に、すでに成仏していた。それ以来、この娑婆世界や他の無量の国土で無数の衆生を教化してきた。このように私の寿命は無量であり、常住にして不滅であるーと。釈尊は、はるか久遠に成仏していたーこれを「久遠実成じつじょう」といいます。これに対して、釈尊が今世で始めて成仏したことを「始成正覚しじょうしょうかく」といいます。ここで疑問を持つ人がいるかも知れません。”永遠の生命とはいうが、実際には、釈尊は入滅したではないか。仏の寿命もやはり有限ではないか”と。もっともな疑問です。これについては、寿量品に答えを見出すことができます。すなわち、この世で始めて成仏し、入滅していく始成正覚(しじょうしょうかく)の釈尊は”方便”の仏であり、常住不滅の久遠実成の釈尊こそ”真実”の仏であると、寿量品では説かれています。 [check]方便とは、すでに学んだように、衆生(しゅじょう)を導くための手立てです。仏の生命は真実には永遠であるが、衆生の求道心を高めるために、仮に方便として有限な姿をあらわし、方便として入滅していくのです。これが寿量品の答えです。さらに、こういう疑問の声もあるかと思う。
「永遠の生命」の壮大な叙事詩
  永遠の生命といっても、仏だけの話ではないか。われわれ凡夫(ぼんぷ)には何の関係もないのではないか”と。ところが、大いに関係があるのです。関係があるどころか、 [check]久遠実成の釈尊とは、つきつめていくと、実は私たち自身、衆生自身のことなのです。日蓮大聖人は「如来寿量品の如来とは一切衆生なり」(御書752ページ)と仰せです。 [check]「永遠の生命は」仏だけでなく、一切衆生の生命の真実の姿なのです。釈尊は、自ら悟った「永遠の生命」を明かすために、久遠実成の仏としての本地(真実の境地)を示しました。久遠実成の仏とは、「永遠に民衆を導き続ける仏」です。成仏した結果である仏の姿として永遠の生命を説くのが文上の法門です。しかし、この仏の姿も、究極するところ、宇宙根源の妙法の働きなのです。三世永遠の妙法が、一人の生命に蓮華のように花開き、苦悩の現実の中で清らかに気高く、慈悲と薫り、智慧と輝くのが仏の真実の姿なのです。この妙法の活動が永遠なのです。すなわち、妙法蓮華経こそ久遠実成の仏の実体であり、釈尊をはじめすべてのほとけは妙法の働きなのです。こうとらえるのが寿量文底の法門です。ゆえに大聖人は「妙法蓮華経こそ本仏(御書1358ページ)であると述べられています。そして、この文底の立場から「如来寿量品」の「如来」とは「南無妙法蓮華経如来」、すなわち大聖人御自身であると宣言されているのです。さらに大聖人は、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」(御書753ページ)と述べられています。つまり、寿量品の主体者は、南無妙法蓮華経を受持する私たちでもあると、御本仏がはっきりと断言してくださっているのです。「永遠の生命」の壮大なる叙事詩・寿量品ー皆さまこそ、その主役なのです。

妙法に生きる我らは「生死ともに遊楽」
  この永遠の妙法に生きゆく私どもの人生は、「永遠の安穏」「永遠の歓喜」「永遠の遊楽」の人生です。無限の大宇宙を旅するような自在の境涯で、幸福の大道を歩んでいける。まさに「生も歓喜」「死も歓喜」の秘法を説くのが寿量品なのです。法華経は、全民衆を幸福にする経典です。なかんずく、寿量品には、釈尊が入滅した後においても全人類を救済できる大法が説き残されている。それが、寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経です。大聖人は仰せです。「末法に入りて爾前迹門は全く出離生死の法にあらず、但専(ただもっぱ)ら本門寿量の一品に限りて出離生死の要法なり」(御書1022ページ)と。
[check]末法の民衆を救済する法は、法華経の中でもただ寿量品一品に限るのです。出離生死とは、生死の苦悩からの解放です。民衆が根本から幸福になることです。寿量品では、すべての人の生命の本源である「永遠の生命」が説かれました。この寿量品を聞いて得られる「功徳」とは何か。ー分別功徳品には「仏寿の無量なることを聞いて、一切皆歓喜す」(開結517ページ)と説かれています。「永遠の生命」を知って、 [check]すべての人が生命の奥低(おうてい)からの「歓喜」をおこすのです。この歓喜こそ、いかなる深い苦悩も吹き飛ばす妙法の力なのです。 [check]大聖人は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御書788ページ)と仰せです。戸田先生も、御本尊を受持した境地を「根底が安心しきって、生きていること自体が楽しい」(戸田城聖前集、第2巻)と表現しておられた。 [check]このように南無妙法蓮華経は、根源的に万人の生命を輝かせる大法なのです。生死の苦悩に沈む末法の衆生を根底から救う大良薬なのです。

だれが末法に弘めるか

  その大良薬たる南無妙法蓮華経を末法の人々に教え、弘めていく”主人公”が地涌(じゆ)の菩薩にほかなりません。地涌の菩薩とは、久遠の妙法を自身の生命に所持した菩薩です。大聖人は「末法所持の人に非ざれば末法の弘法に足らざる者か(御書251ページ)と仰せです。「本法」とは南無妙法蓮華経です。先に述べたように、末法の衆生を救う大良薬とは、寿量文底の南無妙法蓮華経です。南無妙法蓮華経は [check]”生命の法”です。したがって、自らの生命にこの法を所持し、末法の衆生のために顕していける人でなければ、末法の衆生を救うことはできません。日蓮大聖人は、地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕として、末法の民衆を救うために、寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経を御自身の魂とし、その御生命を御本尊として顕されたのです。また、大聖人は「此の本法を受持するは信の一字なり、元品(がんぽん)の無明を対治する利剣は信の一字なり」(御書751ページ)「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御書1360ページ)とも仰せです。


寿量品  池田名誉会長講義 寿量品ー2 1996年6月6日 発行 [#bb0ae43b]

妙法蓮華経如来寿量品第十六

如是。我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。
にょぜ。がじょうぶついらい。じんだいくおん。じゅみょうむりょう。あそぎこう。じょうじゅうふめつ。しょぜんなんし。がほんぎょうぼさつどう。しょじょうじゅみょう。こんゆうみじん。ぶばいじょうしゅ。

是(かく)の如(ごと)く、我(われ)成仏(じょうぶつ)してより已来(このかた)、甚(はなは)だ大(おお)いに久遠(くおん)なり。寿命無量阿僧祇劫(じゅみょうむりょうあそうぎこう)なり。常住(じょうじゅう)にして滅(めつ)せず。諸(もろもろ)の善男子(ぜんなんし)、我(われ)れ本(もと)、菩薩(ぼさつ)の道(どう)を行(ぎょう)じて成(じょう)ぜし所(ところ)の寿命(じゅみょう)、今猶未(いまなおいま)だ尽(つ)きず。復上(またかみ)の数に倍せり。

通解ーこのように、私(釈尊)が成仏してからこれまで、実に久遠の時が経過している。その寿命は無量阿僧祇劫(五百塵点劫)という長い時間であり、この世界に常住して滅することがない。善男子たちよ。私が、もと菩薩の道を実践して成就したところの寿命は、今なお尽きていない。さらに、先に述べた数、すなわち五百塵点劫に倍して続くであろう。

講義ーここからは、未来に向けてのメッセージです。寿量品は、五百塵点劫の久遠という過去のことえを説いているように見えます。しかし、その真意は未来にあるのです。

寿量品は未来へのメッセージ
  日蓮大聖人は、寿量品が説かれたのは釈尊滅後の衆生のためであり、なかんずく末法(まっぽう)のためであるといわれている。(御書334ページ、趣意)。また、寿量品の久遠成道(くおんじょうどう)について、過去のことを説いているようであるが、滅後をもって本意とする。”過去のことは先例として説かれているのである”とも述べられています(御書335ページ、趣意)。天台もこの部分について”未来にわたり仏の偉大な功徳力が常住し衆生を利益していくことが明かされている、と説明している。このように、未来の衆生を救うことに寿量品の本意があるのです。このことを経文に確認してみましょう。まず「是の如く、我成仏してより已来(このかた)甚(はなは)だ大いに久遠(くおん)なり。寿命無量阿僧祇劫なり」とあります。これは、寿量品冒頭からこれまでに至る説法の趣旨を要約しています。すなわち、釈尊が仏になってから五百塵点劫という時が経過した。そのうえで、久遠の仏について「常住にして滅せず」と明かしています。「常住不滅」-これこそ未来に向けた言葉です。三世にわたって常住する仏だからこそ、求道心がある人に対しては、いつ、どこにでも出現するのです。衆生救済の活動は、久遠の過去から釈尊在世の現在、そして釈尊滅後の未来へと貫かれているということです。三世永遠なのです。末法の衆生を救うために、三世にわたって常住する真実の仏を明かしたのが寿量品です。無仏の世、法滅の世と思われた末法にも、真実の仏は常住しているのです。この点からみても、仏法において「末法」を説くのは、いわゆる”終末論”をいっているのではないことが明らかです。いな、人々の不安をあおる終末論など、仏法にあるはずがない。仏法は、人間に生命の根底からの安心を与える教えなのです。

我が「菩薩の寿命(ぼさつのいのち)」は永遠と明かす
  続いて「我(わ)れ本(もと)。菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」と説かれています。この文では、寿量品が未来のための教えであることがさらに明瞭になります。すなわち、釈尊が久遠において菩薩道を実践して成就した寿命は、五百塵点劫の間、存続してきただけでなく、さらにこれから、未来に向かって五百塵点劫の数に倍して続くと説かれている。言い換えれば、久遠の仏の救済活動は、五百塵点劫に倍する長遠の時間にわたって、さらに続けられていくのです。未来の衆生の救済こそ寿量品の本意であることが、これで明らかです。さて、未来に向けられたこれらの経文には、「本因妙」「本果妙」という重要な法門が明かされています。本因・本果とは、久遠における成仏の因果のことです。成仏の因となったのは久遠の菩薩道で、これが本因です。その結果、成仏したことが本果です。「本因」とは成仏の根本原因です。幸福の本源です。久遠において釈尊が実践した修行にそれがあるのです。それが”妙”であり、不可思議なので「本因妙」といいます。この本因妙は、文上では、「我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」の文で表わされています。

本源の生命開く本因妙の仏法
  この文で「成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず」とあるのは、釈尊が久遠の昔に菩薩道を修行して開いた智慧の寿命が、無量であり、尽きることがないということです。菩薩道、つまり利他の実践こそ、智慧を磨く福運を開く道です。「他の人のために」との豊かな心にこそ、尽きることなき智慧が開かれるのです。修行する釈尊は、九界と仏界に立て分ければ、九界の衆生です。その九界の生命に、本来、無量の智慧の寿命が具わっているのです。それが九界の生命の究極の姿であり、”妙”と言われるゆえんなのです。だれもが持っている、本源の妙なる生命を開くのが、仏法の目的です。また、「本果」とは、久遠の仏が本因の修行によって得た真実の仏の境涯のことで、それが思議し難く、”妙”なので「本果妙」と言います。天台はこれを、常楽我浄の境地を究めることだと述べている。晴れわたった大空のように広々として清らかであり、何ものにも揺るがぬ不動の幸福境涯なのです。文上では「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり、寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず」の文が本果妙を明かしています。ここで、久遠において本果を成就した仏が常住不滅だと説かれています。要するに、寿量品の本因・本果の法門とは、久遠の仏においては本果である仏界の生命だけでなく、本因である九界の生命も常住であることを明しているのです。九界の生命も常住しているがゆえに、成仏した後も、九界の衆生を救う菩薩行が続けられるのです。久遠における真実の成仏とは、本果を得て、本因の菩薩行が止まるのではありません。九界の生命を断じて、どこか別の仏の世界に去ってしまうものでもありません。九界も仏界も常住するーこの久遠の仏の一身において示された生命の真実の姿に、未来の衆生を救済するために残すべき成仏の根本原理、すなわち十界互具・一念三千の法理が明かされているのです。大事なのはこの点です。大聖人は「開目抄」で「本因・本果の法門」について次のように仰せです。「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(御書197ページ)この「無始の九界」「無始の仏界」とは、それぞれ本因・本果のことで、それが久遠の
仏の一身において互具しているのです。その十界互具・一念三千の生命が常住不滅なのです。ただし、文上では、悟りを開き示した仏(本果)の生命に、本果だけでなく本因もあることを述べている。つまり文上は、あくまで本果が表です。これに対して、大聖人の仏法では、本因を表に立てます。九界の凡夫が中心です。救うべき末法の衆生とは凡夫だからです。そのために本因妙を表す「我本行菩薩道」の文が、再び注目されなければなりません。すなわち、久遠において凡夫の釈尊が菩薩道を実践して無量の智慧の寿命を成就した、その原動力はそもそも何であったか。-それこそが南無妙法蓮華経にほかならないのです。南無妙法蓮華経は「我本行菩薩道」の文の底に秘されて」いるのです。大聖人が「開目抄」で「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(御書189ページ)と仰せの「寿量品の文の底」とは、まさに「我本行菩薩道」の文底にほかなりません。

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

k.u