日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

生命の本質論

       すばらしき仏法の教え 



生命の本質論

この節は戸田先生が大白蓮華第1号(昭和24年7月10日発行)に掲載されたものである。以下私が創価学会に学び感銘を受けた文章を抜粋します、ぜひ世界中の人々に知ってもらいたい究極の生命の本質論。

一、生命の不可思議

わが国の神道が超国家主義、全体主義に利用されて、遂には無謀なる太平洋戦争にまで、発展して行った時に、私は恩師故牧口常三郎先生及び親愛なる同志と共に、当時の宗教政策の甚だ非なることを力説した。即ち日本国民に、神社の礼拝を強制することの非論理的、非道徳的所以を説いたのであるが、そのために昭和18年の夏弾圧されて、爾来2カ年の拘置所生活を送ったのであった。冷たい拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送っているうちに、思索は思索を呼んで、終には人生の根本問題であり、しかも難解きわまる問題たる「生命の本質」に、つき当ったのである。「生命とは何か」「この世だけの存在であるのか」「それとも永久に続くのか」これこそ永遠の謎であり、しかも、古来の聖人賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。不潔な拘置所には虱が好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、虱はのこのこと遊びにはい出してきた。私は2匹の虱を板の上に並べたら、彼らは一心に手足をもがいている。まず1匹を潰したが、他の一匹はそんなことに頓着なく動いている。潰された虱の生命は一体どこへ行ったのか。永久にこの世から消え失せたのであろうか。又桜の木がある。あの枝を折って花瓶にさしておいたら、やがてつぼみは花となり、弱々しい若葉も開いてくる。この桜の生命と、元の桜の木の生命とは別のものであるか、同じものであるのだろうか。生命とはますます不可解のものである。その昔、生まれて間もない一人の娘が死んで、悩み苦しみぬいた事を思い出してみる。その時自分は娘に死なれてこんなに悩む、もし妻が死んだら(その妻も死んで自分を悲しませが)、、、、、と思った時に身震いして、さらに自分自身が死に直面したらどうか、と考えたら目がくらくらするのであった。それ以来キリスト教の信仰に入ったり、又は阿弥陀経によったりして、たえず道を求めてきたが、どうしても生命の問題に関して、心の奥底から納得するものは何一つ得られなかった。その悩みを又、独房の中で繰り返したのである。元来が科学、数学の研究に興味を持っていた私としては、理論的に納得できないことは、とうてい信ずることはできなかった。そこで私はひたすらに、法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。そして法華経の不思議な句に出合い、これを身をもって読み切りたいと念願して、大聖人の教えのままにお題目を唱えぬいていた。唱題の数が二百万遍になんなんとする時に、私は非常に不思議なことにつき当り、未だかって、はかり知り得なかった境地が眼前に展開した。喜びに打ち震えつつ、一人独房の中に立って、三世十方の仏・菩薩・一切の衆生に向かって、かく叫んだのである。遅るること五年にして惑わず先立つこと五年にして天命を知りたり、と。かかる体験から私は今、法華経の生命観に立って、生命の本質について述べたいと思うのである。

二、三世の生命

法華経の譬喩品(ひゆぼん)に云く
「爾の時に仏、舎利弗(しゃりほつ)に告げたまわく、我今天・人・沙門・婆羅門(ばらもん)等の大衆の中に於いて説く。我昔嘗て二万億の仏の所(みもと)に於いて、無上道の為の故に常に汝を教化す。汝亦夜に我に随って受学しき。我方便を以て汝を引導せしが故に、我が法の中に生ぜり。舎利弗、我昔汝をして仏道を志願せしめき。汝悉く忘れて、便(すなわ)ち自ら己に滅度を得たりと謂(おも)えり。我今還って汝をして本願所行の道を憶念せしめんと欲するが故に、諸々の声聞(しょうもん)の為に是の大乗経の妙法蓮華経菩薩法・仏所護念と名くるを説く。舎利弗、汝来世に於て、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干(そこばく)千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得べし。」
化城喩品(けじょうゆぼん)に云く。

「是の十六の菩薩沙弥(しゃみ)は甚だこれ稀有(けう)なり。諸根通利にして智慧明了なり。己に曾(かつ)て無量千万億の諸仏を供養し、諸仏の所(みもと)に於いて常に梵行を修し、仏智を受持し衆生(しゅじょう)に開示してその中に入らしむ。汝等皆当に数々(しばしば)親近して之を供養すべし。所以は何(いか)ん若し声聞・辟支仏(ひゃくしぶつ)及び諸々の菩薩、能く是の十六の菩薩の所説の経法を信じ受時して毀(そし)らざらん者、是の人は皆当(みなまさ)に阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみゃく)三菩提(ぼだい)の如来の慧を得べし。仏諸の比丘に告げたまわく是の十六の菩薩は常に楽(ねが)つて是の妙法蓮華経を説く。一一の菩薩の所化の六百万億の那由佗恒河沙(なゆたごうがしゃ)等の衆生は世々に生まるる所菩薩と倶(とも)にして云云。
如来寿量品に云く

諸の善男子(ぜんなんし)、如来諸の衆生の小法を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはっくじゅう)の者を見ては、是人の為に我少(わか)くしてより已来(このかた)、久遠(くおん)なること斯くの若し(かくのごとし)。

自我偈(じがげ)云く。

「我仏を得てより来(このかた) 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇(むりょうひゃくせんまんあそうぎ)なり」この経文は法華経のごく一部ではあるが、およそ釈尊一代の仏教は、生命の前世、現世及び来世のいわゆる三世の生命を大前提として説かれているのである。故に仏教から三世の生命観を抜き去り、生命は現世だけであるとしたならば、仏教哲学は全くその根拠を失ってしまうと考えられるのである。しかして各教典には生命の遠近・広狭によって、その教典の高下浅深がうかがわれるのである。さらに日蓮大聖人にあっても三世の生命観の上に立っていることはいうまでもない。ただ釈尊よりも大聖人は生命の存在をより深く、より本源的に考えられているのである。

開目抄に云く

儒家には三皇・五帝・三王、此等を天尊と号す(乃至)貴賎・苦楽・是非・得失等は皆自然等云云、かくの如く巧みに立つといえども、いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という、但(ただ)現在計りしれるににたり。

又云 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期(ご)とせん、身子(しんし)が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼(こつげん)の婆羅門(バラモン)の責(せめ)を堪(た)えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値(あ)うゆへなり、 [check]善(よき)に付け悪(あしき)につけ法華経をすつるは地獄の業(ごう)なるべし。

撰時抄に云く

今の人人いかに経のままに後生をねがうとも、あやまれる経経のままにねがはば得道もあるべからず、しかればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候。

かかる類文はあまりにも繁多であり、三世の生命なしに仏法はとうてい考えられないのである。これこそ生命の実相であり、聖者の悟りの第一歩である。しかしながら多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。しかるに吾人の立場からみれば、否定する者こそ自己の生命を、科学的に考えないうかつさを笑いたいのである。およそ科学は因果を無視して成り立つであろうか。宇宙のあらゆる現象は、必ず原因と結果が存在する。生命の発生を卵子と精子の結合によって生ずるというのは、単なる事実の説明であって、より本源的に考えたものであはない。あらゆる現象に因果があって、生命のみは偶発的にこの世に発生し、死ねば泡沫のごとく消えてなくなると考えて平然としていることは、あまりにも自己の生命に対して無頓着な者といわねばならない。いかに自然科学が発達し、又平等を叫び、階級打破を叫んでも、現実の生命現象はとうていこれによって説明され、理解されうるものではない。我々の眼前には人間があり、猫あり犬あり、虎あり、杉の大木があるが、これらの生命は同じか、違うか、又その間の関連如何。同じ人間にも生まれつきのばかと利口、美人と、不美人、病身と健康体等の差があり、いくら努力しても貧乏である者もおれば、又貪欲や嫉妬に悩む者、悩まされる者などを科学や社会制度ではどうすることもできないであろう。かかる現実の差別には必ずその原因があるはずであり、その原因の根本的な探求なしに、解決されるわけがないのである。
ここにおいて三世の生命を説くからといって、我々は霊魂の存在を説いているのではない。人間は肉体と精神の他に、霊とか魂とかいうものがあって現世を支配し、さらに不滅に続くということを、承認しているのではないことを明らかにしておく。

三、永遠の生命

人間の生命は三世にわたるというが、その長さは如何(いかん)。これこそ又仏法の根幹である故に今左の経文を引用する。
妙法蓮華経如来寿量品に云く

然るに善男子(ぜんなんし)、我実に成仏してより已来(いらい)無量無辺百千万億那由佗劫なり。譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使(たとい)人あって抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて及(すなわ)ち一塵を下し、是の如く東に行いて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子(ぜんなんし)、意(こころ)に於いて云何、是の諸の世界は思惟し校計(きょうけい)して其の数を知ることを得べしや否や。弥勒菩薩等俱に仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦(また)心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智(むろち)を以っても思惟してその限数を知ること能(あた)わじ。我等阿惟越致地(われら、あゆいおっちじ)に住すれども、是の事の中に於いては亦達せざる所なり。世尊是の如き諸の世界無量無辺なり。爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に汝等に宣語すべし。是の諸の世界の若しは微塵を著(お)き及び著(お)かざる者を尽(ことごと)く以って塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千億那由佗阿僧祇劫なり。是より来(このかた)、我常に此の娑婆世界にあって説法教化す。
この経文は釈尊の数多くの経文中最も大切な部分であり、悟りの極底である。
その大意をいうならば「お前たちは皆私がこの世で仏になったと思っているが、実は自分が仏になったのは今から五百塵点劫という数えることも出来ないほど昔に成仏して以来、常にこの娑婆世界にいて活動をしているのである」という意味であり、自分の生命は現世だけのものではなく、又悟りの現世だけのものでなくて、永久の昔からの存在であると喝破しているのである。さらに同じく寿量品の次の文は前文とは別の立場から拝すべきである。
[check]その大意をいうならば「お前たちは皆私がこの世で仏になったと思っているが、実は自分が仏になったのは今から五百塵点劫という数えることも出来ないほど昔に成仏して以来、常にこの娑婆世界にいて活動をしているのである」という意味であり、自分の生命は現世だけのものではなく、又悟りの現世だけのものでなくて、永久の昔からの存在であると喝破しているのである。
さらに同じく寿量品の次の文は前文とは別の立場から拝すべきである。

諸の善男子、如来は諸の衆生の小法を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはっくじゅう)の者を見ては、是の人の為に我少(わか)くして出家し阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たりと説く。然るに我実に成仏してより已来(このかた)、久遠なること斯くの若(ごと)し。
即ちこの文は福徳の薄い心の濁った者は、生命は現世だけであると考えているが、 [check]真実の生命の実相は無始無終であるととかれているのである。

日蓮大聖人におかれては、釈尊が仏の境涯から久遠の生命を観ぜられたのに対して、大聖人は名字即の凡夫位において、本有(ほんぬ)の生命、常住の仏を説きいだされている。即ち [check]凡夫の我々の姿自体が無始本有の姿である。瞬間は永遠をはらみ、永遠は瞬間の連続である。久遠とは、はたらかさず、つくろわず、もとの儘(まま)と説かれているのである。

三世諸仏総勘文抄に云く

釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐(おわ)せし時我身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき。後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏云云。

当体義抄に云く

聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果俱時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華経と為す此の妙法蓮華経の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)なし之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・俱時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり。

十法界事に云く

迹門(しゃくもん)には但是れ始覚の十界互具を説き未だ必ず本覚本有(ほんがくほんぬ)の十界互具を明さず、(乃至)故に無始無終の義欠けて具足せず云云。

御義口伝(下)に云く。

されば無作(むさ)の三身(さんじん)とは末法(まっぽう)の法華経の行者(ぎょうじゃ)なり無作の三身の宝号(ほうごう)を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品(じゅりょうぼん)の事(じ)の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出ずるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟(くきょう)したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極(ごく)とせず唯凡夫の当体本有の儘(まま)を此の品の極理と心得可きなり。

さてすでに明らかなるごとく、仏を中心として展開する釈尊の一念三千は、本迹ともに理の上の法相(ほっそう)であり、凡夫の当体本有のままにおいて身につける大聖人の直達正観・事行の一念三千こそ、もっとも生命の実体をより本源的に説き明かされているものと拝する。

私に会通を加えて本文をけがすことを恐るといえども、久遠の生命にかんしてその一端を述べてゆく。

生命とは宇宙と共に存在し、宇宙より先でもなければ、後から偶発的に、或いは何人かによって作られて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物と見ることも誤りである。我々は広大無辺の大聖人の御慈悲に浴し、直達正観(じきだつしょうかん)・事行(じぎょう)の一念三千の大御本尊に帰依し奉って、「妙」なる生命の実体把握を励んでいるのに他ならない。或いはアメーバーから細胞分裂し進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。しからば、赤熱の地球が冷えた時になぜアミーバーが発生したか、何処からとんできたのかと反問したい。地球にせよ星にせよアミーバーの発生する条件が備わればアミーバが発生し、隠花植物の繁茂する地味気候の時にはそれが繁茂する。しかして進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、いたるところに条件が備われば生命の原体が発生するのである。故に幾十億万年の昔にどこかの星に人類が棲息し、今は地球に生き栄えているとするも何の不思議はないのである。又いずれかの星に将(まさ)に人間にならんとする動物がいることも考えられ天文学者の説によれば金星が隠花植物の時代であるとの説を聞いたことがあるが、私は天文学者ではないからこれを実証することは出来ないにしても、さもありなんと信ずるものである。或いは蛋白質その他の物質が、ある時機に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはゆかない。蛋白質等は生命発生の機縁にはなるであろうが、生命自体は宇宙と共に本有常住の存在であるからである。

四、生命の連続

生命は永久であり、永遠の生命であるとは人々のよくいう所であるが、この考え方にはいろいろの種類がある。ある人は観念的に唯「永遠」であると主張してボンヤリ信じているが、こんな観念論的な永遠は吾人のとらない所である。又子孫に生命が伝わって、その子孫に伝わる生命の中に自分が生きていると考える者もあるが、これでは永遠とはいえまい。もし子孫が断滅したならば自分がなくなるではないか。地球が滅びたらなくなるような生命では永久とはいえない。又子孫と自分との関係において、現に今生きている息子の中に同じく活動している自分の生命があることになり、甚だ不合理である。このような人は自分の死後の生命をどう考えているか。子孫の体を自分の墓場のように考える浅薄な生命観であり、永久の生命を知っているとはいえないのである。

かの有名な高山樗牛先生が、「人が偉大な仕事をする。その偉大な仕事は後世にも残る。その後世に残した偉大な仕事に自分が生きている」と言われたことを記憶している。樗牛先生は偉大な文学者であるだけに、私は非常に悩んだものである。もし先生の言葉のごとくならば、平凡な我々や犬や猫は永久な生命といえないことになる。よってこの場合の永遠の生命に普遍妥当性がないわけである。長い間本当かウソかと悩みつづけた結果、彼は偉大なる文学者ではあるが、死後の生命に関しては甚だ浅薄な考え方であるという結論に達した。又少し理論的ではあるけれども事実とは相違している生命論に、生物には何か霊魂というようなものがあり、それが永久に伝わって行くのだと考えているのがある。これはちょっと聞くと真実のように思われるので、相当の学者や多数の人々によって主張されている。しかしながらこれも仏教哲学の対象としては全然無価値なものである。釈迦は涅槃経の中において徹底的にこれを否定してる。即ちこの考え方は邪見であって正しいものではないとしているのである。しからばどんな風にしてあらゆるものの生命が連続するのであろうか。死後の問題はなかなか仏教哲学でも最高に属するもので、その素養のない人に対しては誤りを起こすおそれがある故にこれを省くことにし、きわめて常識論的に取り扱うから、その点は諒承されたい、

寿量品の自我偈(じがげ)には「方便現涅槃」とあり、死は一つの方便であると説かれている。例えてみれば眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的から見れば単なる方便である。人間が活動するという面から見るならば眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、又溌溂(はつらつ)たる働きも出来ないのである。そのように人も老人になったり病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便によって若さを取り返す以外にない。

仏法の極理は一念三千であるが、死後の世界もまた一念三千との関連において解決されていることはいうまでもない。さて開目抄に「一念三千は十界互具よりことはじまれり」と仰せられ、観心本尊抄では十界について次のように述べられている。
「数(しばし)ば他面を見るに或る時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平かに或時は貪(むさぼ)り現じ或時は癡(おろか)現じ或時は諂曲(てんごく)なり、瞋(いかる)は地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、諂曲(てんごく)なるは修羅、喜ぶは天、平かなるは人なり、(乃至)世間の無常は眼前に有りあに人界に二乗界無からんや、無願(むこ)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計(ばか)り現じ難し云云。
我々の日常生活における心の状態をよくよく思索するならば、瞬間瞬間に、一念一念と起きては消え、起きては消えているのが貧(むさぼ)りとか怒(いか)りである。そして二つの念が一時に起こることは決してありえないのである。ここで少し説明を加えたいのは、前掲の本尊抄に「仏界計(ばか)り現じ難(がた)し」とあるが、その仏界を現ずる縁となるものは何か。日蓮大聖人の仏法の極理は事行(じぎょう)の一念三千(いちねんさんぜん)であり、実践の形態は三大秘法にある。故に本門戒壇の御本尊を信仰することのみが、その縁となって即身成仏を得られるのである。ただしこの点に関しては別の機会にくわしくのべたいと思う。
われわれの心の働きを見るに、喜んだとしてもその喜びは時間が立つと消えてなくなる。その喜びは霊魂のようなものがどこかへ行ってしまったわけではないが、心のどこかへ溶け込んでどこを探してもないのである。しかるに何時間か何日かの後同じ喜びが起こるのである。又ある事によって悲しんだとする。何時間か何日かすぎてその事を思い出して、又同じ悲しみが生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、前の悲しみと後の悲しみと立派な連続があって、その中間は何処にもないのである。同じような現象が我々日常の眠りの場合にある。眠っている間は心はどこにもない。しかるに目をさますや否や心は活動する、眠った場合には心がなくて起きている場合には心がある。あるのが本当かないのが本当か、有るといえば無いし無いといえば現れてくる。このように有無を決定できないとする考え方を、これを空観とも妙ともいうのである。このようにこの少宇宙である、我々の肉体から、心とか心のはたらきとかいうものを思索し、その上に仏法の哲学の教えを受けて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。

前にも述べたように宇宙は即生命である故に、我々が死んだとする、死んだ生命はちょうど悲しみと悲しみとの間に何もなかったように、喜びと喜びの間に喜びがどこにもなかったように、眠っている間その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命にとけこんんでどこを探してもないのである。霊魂というものがあってフワフワ飛んでいるものではない。又大自然の中に溶け込んだとしても決して安息しているとは限らないのである。あたかも眠りが安息であるといい切れないのとおなじである。眠っつている間安息している人もあれば苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りに悩んでいる人もあるのと同じである。この死後の大生命に溶け込んだ姿は、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に臓するならば自然に会得するであろう。この死後の生命が、何かの縁にふれて我々の目にうつる生命活動となって現れてくる。ちょうど目をさました時に、昨日の心の活動状態を今日も又その後を追って活動するように、新しい生命活動は過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。かくのごとく寝ては起き起きては寝るがごとく、生きては死に死んでは生き、永遠の生命を保持している。その生と生の間の時間は、人各異なっているのであるから、この世で夫婦親子というのも永遠の親子夫婦ではありえない。ただ清浄なる真実の南無妙法蓮華経を信奉する、即ち日蓮大聖人の弘安二年十月十二日の大御本尊を信ずるもののみが、永遠の親子であり同志であって、大功徳を享受しているのである。

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