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妙法蓮華経如来寿量品第十六
如是。我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数
にょぜ。がじょうぶついらい。じんだいくおん。じゅみょうむりょう。あそぎこう。じょうじゅうふめつ。しょぜんなんし。がほんぎょうぼさつどう。しょじょうじゅみょう。こんゆうみじん。ぶばいじょうしゅ。
是(かく)の如(ごと)く、我成仏(われじょうぶつ)してより已来(このかた)、甚(はなは)だ大(おお)いに久遠(くおん)なり。
寿命無量阿僧祇劫(じゅみょうむりょうあそぎこう)なり。常住(じょうじゆう)にして滅(めっ)せず。諸(もろもろ)の善男子(ぜんなんし)、我(わ)れ本(もと)、菩薩の道(どう)を行じて成(じょう)ぜし所の寿命、今猶(いまなお)未(いま)だ尽きず。復(また)上(かみ)の数に倍(ばい)せり。
『通解』
このように、私(釈尊)が成仏してからこれまで、実に久遠の時が経過している。その寿命は無量阿僧祇劫(五百塵点劫)という長い時期であり、この世界に常住して滅することがない。善男子たちよ。私が、もと菩薩の道を実践して成就したところの寿命は、今なお尽きていない。さらに先に述べた数、すなわち五百塵点劫に倍して続くであろう。
「名誉会長講義」
未来に向けてのメッセージです。寿量品(じゅりょうぼん)は、五百塵点劫の久遠という過去のことを説いているように見えます。しかし、その真意は未来にあるのです。
この文で「成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず」とあるのは、釈尊が久遠の昔に菩薩道を修行して開いた智慧の寿命が、無量であり、尽きることがないということです。菩薩道、つまり利他の実践こそ、智慧を磨き福運を開く道です。「他の人のために」との豊かな心にこそ、尽きることなき智慧が開かれるのです。九界と仏界に立て分ければ、九界の衆生です。その九界の生命に、本来、無量の智慧の寿命が具わっているのです。それが九界の生命の究極の姿であり、“妙”と言われるゆえんなのです。だれもが持っている、本源の妙なる生命を開くのが、仏法の目的です。
九界も仏界も常住する_この久遠の仏の一身において示された生命の真実の姿に、未来の衆生を救済するために残すべき成仏の根本原理、すなわち十界互具・一念三千の法理が明かされているのです。大事なのはこの点です。大聖人は「開目抄」で「本因・本果の法門」について次のように仰せです。
「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。(御書197ページ)
「開目抄」で「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(御書189ページ)と仰せの「寿量の文の底」とは、まさに「我本行菩薩道」の文底にほかなりません。
久遠の凡夫・釈尊は、南無妙法蓮華経を修行して成仏しました。「因果具時・不思議の一法」(御書513ぺージ) と言われるように、本因・本果は南無妙法蓮華経の一法を信ずる一念に、本因・本果は具わるのです。この「一念の妙」が、大聖人の「本因妙の仏法」の極意です。また、一念三千の究極です。凡夫の一念にも本因・本果がともに具わるのです。一念が変われば、一切が根底から変わるのです。
私たちは瞬間瞬間、幸・不幸や苦・楽を感じて生きています。その現在の一瞬の生命は、過去の原因によってもたらされた結果です。このことは 、比較的たやすく分かります。しかし、現在の一瞬の生命は、未来の原因でもある。このことは理屈のうえでは至極当然のようでいて、実際の生き方のうえでは気づきにくい。
「瞬間に起った生活の事実を、たえず未来の原因とする、あるいは原因でなければならぬと決定するのが、本因妙の仏法であります」
本因・本果は、我々の一念に具しているのです。因果俱時(いんがぐじ)です。ゆえに我々は、生活の上に起るいかなることも、よしんばそれがどんなに不幸な結果であったとしても、信心の一念によって、久遠の本因_幸福の根本原因としていける。 清らかな本源の生命から出発していけるのです。それによって、揺るがぬ幸福境涯へと生命全体が向かっていく。これが「本因妙の生き方」です。
本因妙の心は、”人間の尊厳を開く実践”にあります。このことを端的に示しているのが、寿量品の「我本行菩薩道」の文です。
「我」(が)とは、久遠に於いて菩薩道を実践した「凡夫の釈尊」です。我々と同じ人間です。決して人間を超えた何者かではない。久遠とは生命の本源であり。生命の本源に立ち返った久遠の凡夫が「本因妙の釈尊」です。この「本因妙の釈尊」を本尊とするのが、大聖人の仏法なのです。 久遠における「本因妙の釈尊」はすなわち末法の御本仏・日蓮大聖人であられる。久遠即末法です。 [#o24dfa54]
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