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諸法実相抄 「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用(ゆう)の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座(おわし)候へ」
撰時抄に「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑いなし、これをもってすいせよ漢土月支にも一閻浮堤(いちえんぶだい)の内にも肩をならぶる者は有るべからず」
百六箇抄(ひゃくろっかしょう)に「下種(げしゅ)の法華経教主の本迹(ほんじゃく)・自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品(じゅりょうぼん)とは脱益寿量(だっちゃくじゅりょう)の文底(もんてい)の本因妙のことなり、其の教主は某なり」
以上の御文から、末法(まっぽう)の仏宝は、日蓮大聖人であることは明白である。
種 熟 脱
種とは下種(げしゅ)のことで、仏に値(あ)って、仏になる種を得ることであり、熟とは過去の下種が薫発(くんぱつ)し、調養することで、脱とは下種された仏種(ぶっしゅ)が長養して、ついに仏と同じ境涯を得るにいたる、すなわち成仏することをいう。
秋元御書に『種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給(たま)へり』。
観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)『設(たと)い法は甚深(じんじん)と称すとも未だ種熟脱(しゅ、じゅく、だつ)を論ぜず還(かえ)って灰断(けだん)に同じ化の始終無しとは是なり。
病気の原因 医者や薬では絶対に直らない病気がある。
太田入道殿御返事 「病の起る因縁を明かすに六有り、 一には四大順ならざる故に病む・ 二には飲食節ならざる故に病む・ 三には坐禅調なわざる故に病む、 四には鬼便りを得る・ 五には魔の所為・ 六には業の起るが故に病む」大涅槃経にいわく「世に三人の其の病、直し難き有り 一には大乗を謗ず・ 二には五逆罪・ 三には一闡堤(いっせんだい)・是くの如き三病は世の中の極重なり」
治病大小権実違目 夫れ人に二の病あり一には身の病・所謂地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・巳上四百四病なり、此の病は設い仏に有らざれども・之を治す所謂治水・流水・耆婆・扁鵲等が方薬・此れを治するに癒えずという事なし、二には心の病・所謂三毒乃至八万四千の病なり、此の病は二天・三仙・六師等も治し難し何に況や神農・黄帝等の方薬及ぶべしや、又心の病・重重に浅深・勝劣分かれたり。
身の病と心の病とし、身の病は医者でなおるが、心の病は仏法で寄らなければならないとし、心の病に、また重重の浅深を立てて、六道凡夫の病は小乗経でよい、小乗の病は小乗で治す、権大乗の病は実大乗の法華経をもってなおす。法華経の流布すべき時代に権大乗を流布し、その謗法によって起る病は、権大乗をもってなおそうとしても効力がないのみか、かえってその勢いを増す、法華経に二経あり、迹門と本門であって末法には法華経の迹門が流布すべきであり、それ以外の経教はすべて謗法となり、かえって病を増長するばかりであると、ご教示になっている。
中務左衛門尉殿御返事 それ人に二病あり、一には身の病乃至二は心の病、、、、
太田入道殿御返事には止観の文を引き、六の原因をあげて特に業や魔鬼の所為によって
起る病は、仏法によらなければなおすことができないことをしめされている。
法華経普賢菩薩勧発品第二十八にいわく「是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん、若し之を軽笑すること有らん者は、当に世世に、牙歯疎欠、醜脣平鼻、手足繚戾し、眼目角らいに、身体臭穢にして、悪瘡膿血、水腹短気、諸の悪重病あるべし」
法華経譬喩品第三にいわく「若し医道を修め、方に順じて病を治せば更に他の疾を増し或は復死を致さん、若し自ら病有らば人の救療すること無く設い良薬を服すとも而(しか)も復増劇せん
此の本尊の依文(えもん)とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥(たし)かに霊山(りょうぜん)に於いて面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり。
此の砌(みぎり)に望まん輩は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん。
此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万膳の功徳を集めて五字と為せり。此の五字の内に豈(あに)万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれど破れず、是を金剛宝器戒とや申しけん。
此の法華経計(ばか)りに、此の経を持(たも)つ女人は一切の女人にすぎたるのみならず、一切の男子にこえたりとみえて候。
此の法華経は最も難信難解なり、随自意(ずいじい)の故に。随自意の説は随他意(ずいたい)に勝る。
この法華経を閻浮提(えんぶだい)に行ずることは普賢菩薩(ふげんぼさつ)の威神の力に依るなり。此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり。
この法華経を持つ者は難に遇わんと心得て持つなり。されば即為疾得無上仏道の成仏は、今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る是なり。
御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治生産業(じしょうさんぎょう)は、皆実相と相違背せず」とは此れなり。
今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。只南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候もわたくしの計(はか)らいにはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計らいなり。此の南無妙法蓮華経に余時をまじへば、ゆゆしき僻が事なり。
実相と云うは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経と云う事なり。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の姿なり。餓鬼と変ぜば地獄の実の姿には非ず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云う事を諸法実相とは申すなり。
事の一念三千は、日蓮が身に当たりての大事なり。一とは一念、大とは三千なり。此の三千ときたるは事の因縁なり。事とは衆生世間、因とは五陰(ごおん)世間、縁とは国土世間なり。国土世間の縁とは南閻浮提(なんえんぶだい)は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり。経に云く「閻浮提内広宣流布使不断絶」是なり。
釈迦如来の御ためには提婆達多(だいばだった)こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうど(方人)よりも強敵(ごうてき)が人をばよくなしけるなり。
釈迦・多宝の二仏と云うも用(ゆう)の仏なり。 妙法蓮華経こそ本仏にては御座(おわ)し候へ。
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是豈(これあに)地涌(じゆ)の義に非ずや。剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし。
日蓮が魂(たましい)を墨にそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給え、仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。
日蓮生れし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし。此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり。
日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教(でんぎょう)・天台(てんだい)にも超へ、竜樹(りゅうじゅ)・迦葉(かしょう)にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功徳に及ばず。正像二千年の弘通(ぐずう)は末法の一時に劣るか。是ひとへに日蓮が智のかしこきはあらず。時のしからしむる耳(のみ)。
日蓮が弟子檀那等、正直捨方便、不受余経一偈と無二に信ずる故によって、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもしたのもし。
日蓮が弟子等は臆病にては叶(かの)うべからず。
日蓮が弟子にせう(小輔)房と申し、のと(能登)房といゐ、名越の尼なんど申せし物どもは、よくふかく、心をくびょうに、愚痴にして而も智者となのりしやつぱらなりしかば、事のをこりし時、たよりをえておほくの人を落とせしなり。
日蓮が法華経の智解(ちげ)は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし。
日蓮が仏にならん第一のかたうどは影信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争(いかで)か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。
日蓮が申す事を御用い無くんば国を亡(ほろぼ)し後世(ごぜ)は必ず無間大城に堕す可し。
日蓮今生には貧窮下賎(びんぐけせん)の者と生まれ、旃陀羅(せんだら)が家より出でたり。
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