日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

私が学んだ仏法哲学6

      私が学んだ仏教哲学6



人は何の為に産れてきたのか.法華経経文抜粋

衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽 雨曼荼羅華 散仏及大衆

「衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に衆の伎楽を作し
曼荼羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず」

(しゅじょうのゆうらくするところなり しょてんてんくをうって つねにもろもろのぎがくをなし まんだらけをふらして ほとけおよびだいしゅにさんず)

法華経は「衆生の心」に問いかけます。また、衆生が自ら問い、考えることを促します。「一体、私たちは『何のために』この世に生れて来たのかと。

戸田先生は「衆生所遊楽」の経文を通して、いつも言われた。

「人間というのは、世の中へ楽しむために生まれてきたのです。苦しむために生まれてきたのではないのです」衆生の低い人生観、幸福感をひっくり返す、素晴らしい言葉です。

もちろん、この「遊楽」とは、享楽的な”うわべの楽しみ”ではありません。それらは、現実の荒波の前では、あまりにも空しい。しかも、

娑婆(しゃば)世界は「堪忍(かんにん)世界」 苦悩と恐怖の充満する、この世を生きることが、”耐え忍ぶ”ことが、どれほど大変か。自身の境涯(きょうがい)が低ければ結局、敗北です。

しかし、仏の眼で見るならば、また衆生が胸中の「仏の境涯」を開くならば、この娑婆世界が即、「衆生の遊楽する」楽土(らくど)となる。いわば、この世の舞台で、私達は「楽しく生き抜く」という人生の劇を演じているのです。

「一切衆生(いっさいしゅじょう・南無妙法蓮華経と唱うるより外(ほか)の遊楽(ゆうらく)なきなり(御書1143ページ)と日蓮大聖人は仰せです。深く妙法に即っていく時、この世の「苦楽ともに」、楽しみ切っていける醍醐味の人生を生きていけるのです。『遊』は人生を自在に生きていくこと、『楽』は人生を心から楽しむこと、といえるかもしれない。いずれにせよ、根本は自身の生命の境涯です。

人生も同じです。山もあれば、谷もある、しかし、強い生命力と豊かな知恵があれば、険しい山があるから、「山登り」が楽しめるように、波があるから「波乗り」が楽しめるように、あらゆる人生の苦難も全部、楽しみながら、乗り越えて行ける。何ものにも揺るがぬ「常楽我浄(じょうらくがじょう)」の自身となり、人生となるのです。

その自在にして金剛不壊(こんごうふえ)の境涯を、戸田先生は「絶対的な幸福境涯」と言われたのです。

さらに、大聖人は、この遊楽について「我らの色法と心法、依報と正報がともに一念三千の当体であり、自受用身(じじゅゆうしん)ー自ら広大な法の楽しみを受け用いる身の仏であるということではあるまいか(御書1143ページ)とも仰せです。

真実の幸福とは、自らの「身も心も」、また「自分も、環境も、他の人々も」、ともに信心の功徳に潤う幸福です。自分の幸福だけでなく、「自他ともの幸福」を祈り、行動していく。これが、法華経の心です。

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