日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

立正安国論講義

立正安国論講義  抜粋


第一章 災難の由来を問う
本文

旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸(はびこ)る牛馬巷(ちまた)に斃れ骸骨路に充(み)てり死を招くの輩(ともがら)既に大半に超え悲しまざるの族(やから)敢(あ)えて一人も無し、然る間或は利剣即是の文を専(もっぱら)にして西土教主の名を唱え或いは衆病悉除(しつじよ)の願を持(たも)ちて東方如来の経を誦(ず)し、或いは病即消滅不老不死の詞(ことば)を仰いで法華真実の妙文を崇め或いは七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調(ととの)え有るは秘密真言の教に因)(よっ)て五瓶(ごびょう)の水を灑(そそ)ぎ有るは座禅入定(じょう)の儀を全(まっとう)して空観の月を澄まし、若(も)しくは七鬼神の号を書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸(ばんこ)に懸け若くは天神地祇(ぎ)を拝して四角四堺の祭祀(さいし)を企て若くは万民百姓を哀れんで国主・国宰の徳政を行う、然りといえども唯肝胆を摧(くだ)くのみにして、弥(いよいよ)飢疫(きえき)に逼(せめ)られ乞客(こっきゃく)目に溢れ死人眼に満てり、臥(ふ)せる屍を観(ものみ)と為し並べる尸(かばね)を橋と作す、観(おもんみ)れば夫(そ)れ二離壁(じりへき)を合せ五緯珠(ごいたま)を連ね三宝も世に在(いま)し百王未だ窮(きわ)まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍(わざわい)に依り是れ何なる誤りに由(よ)るや。

通解

旅客が来て嘆いていうには、近年から最近に至るまで、天変地夭、飢饉や疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている。牛馬はいたるところに死んでおり、その死骸や骸骨が道路いっぱいに満ちている。すでに大半の者が死に絶え、これを悲しまない者は一人もなく、万人の嘆きは、日に日につのるばかりである。そこで、あるいは浄土宗では弥陀の名号は、煩悩を断ち切る利剣であるとの文を、ただひとすじに信じて念仏を唱え、あるいは天台宗ではすべての病がことごとくなおるという薬師経の文を信じて、薬師如来の経を口ずさみ、あるいは病がたちまちのうちに消滅して、不老不死の境涯を得るという詞(ことば)を信じて、法華経の経文をあがめ、あるいは七難がたちまちのうちに滅して七福を生ずるという仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)の句を信じて、百人の法師(ほっし)が百か所において仁王経を講ずる百座百講の儀式を整え、またあるいは真言宗では秘密真言の教えによって、五つの瓶に水を入れて祈祷を行い、あるいは禅宗では座禅を組み、禅定の形式ばかりととのえて、空観(くうかん)にふけり、さらにあるものは七鬼神の名を書いて千軒の門に貼ってみたり、ある者は国王、万民を守護するという仁王経の五大力菩薩の形を書いて万戸に掲(かか)げ、あるいは天の神、地の神を拝んで四角四堺のお祭りをし、あるいは国主国宰など時の為政者が万民一切大衆を救済するために徳政を行っている。しかしながら、そのようなことをしているけれども、ただ心を砕き、夢中になって努力するのみで、ますます飢饉や疫病にせめられ、乞食は目にあふれ、死人はいたるところにころがっている。そのありさまはあたかも、うず高く積まれた屍は物見台となしたようにみえ、道路に並んでいる死体は橋となしたようにみえたのである。観(おもんみ)れば、太陽も月も星もなんの変化もなく、きちんと運行し、仏法僧の三宝も世の中に厳然とある。またかつて平城(へいぜい)天皇の御代に八幡大菩薩の託宣(たくせん)があって、必ず百代の王を守護すると誓ったというのに、いまだ百代にならないが、この世は早くも衰えてしまい、王法はどうして廃(すた)れてしまったのか。これはいかなる過失から生じたものであり、またいかなる誤りから、かかる状態になってしまったのであろうか。

語訳

旅客 この立正安国論は、主人と旅客の問答形式によって、立正安国すなわち正法をたてることによって国をあんずる義が明かされていく。最初に、旅客がこの当時の惨惨たる世相を述べて嘆くのに対し、主人が、まずその災難の起こる根本原因は、世の人々が皆正法にそむき、悪法に帰するがゆえであると、仏法の立場から答える。ついで、旅客のさまざまの疑問に対して、一つ一つ答えていくことにより、仏法の正邪、仏法と国法の関係等の奥義(おうぎ)が明示されるのである。ここで旅客は、真実の仏法を知らず、念仏等を信仰する謗法の大衆をさす。別しては、この立正安国論の対告衆(たいごうしゅう)である北条時頼である。この時、時頼は執権の地位を退き、隠栖(いんせい)して最明寺入道と称していたが、幕政の最高責任者であることに変わりはなかった。本論が国家諫暁の書でありながら、実力のない朝廷でなく、鎌倉幕府にあてられ、しかも形式上は隠退していた時頼にあてられたことは、形式を排し実質を重んじられた日蓮大聖人の御一面がうかがわれる。なお、問答形式によって実義を明らかにする方式は、他の種々の御書にも見られる。一方的な押しつけでなく、淳々と相手を納得させるために有効で、これは道理正しく論理が一貫していなければできないものといえる。この問答形式の論文は、ヨーロッパでは、ソクラテスの産婆術、プラトンの対話法、ヘーゲルの弁証法として、この方法が主張されている。日寛上人は文壇に「まさに知るべし。賓主(ひんしゅ)問答を仮立したもう所以は、愚者をして解し易からしめんがためなり。しかるにまた例あり。いわゆる荘子・逍遥篇・文選・子虚賦等・金錍論(こんぺいろん)の野客の問答、三教指帰の兎角公・亀毛先生等、皆その例なり」とおおせである。さらに、日寛上人の文壇には「またまた、まさに知るべし、客はこれ他宗、主はこれ時宗なり、ゆえに客の問は仮(け)・方便なり主人の答はこれ真実なり、これらは並びにこれ附文一往なり。もし元意の辺は、連祖は日本国の一切衆生の主君なる義を顕わすなり、いわく家の主これその家の主君なり、国の主これその国の主君なり一天の主これ一天の主君なり、自余は俱にこれ賓客なり「普天の下・卒土の浜・王臣ならざることなし」と云云。撰時抄上二十にいわく「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅宗・真言師等が師範なり又主君なり」と文」とおおせである。

近年より近日に至るまで 
このころ、連年のように、鎌倉、京都を中心として天変地夭や飢饉などの大災害が起こった。ただし、鎌倉、京都を中心としてということは、吾妻鏡、玉葉等の記録がこの近辺の事件に重点をおいているためで、おそらく全国的にも相当あったと思われる。また、近年より近日というのは、一往は文字どおりに抽象的に考えてもよいが、再往、厳密にとれば、正嘉元年(1257年)から文応元年(1260年)までの四年間とすべきである。奥書にいわく「正嘉より之を始め文応元年に勘える」云云と。また、御勘由来に述べられるところからも明らかである。すなわち、この期間はとくに天変地夭が相次ぎ、甚大な被害を及ぼした。正嘉元年八月二十三日、鎌倉方面にかってない大地震があり、翌二年八月一日大風雨、同じく十月十六日洪水。翌三年は大飢饉に見舞われた。この三月改元になり、正元元年から翌二年にかけて疫病が大流行し、飢えと病に倒れる者、数知れず、埋葬するいとまさえなかったという。この四月改元になり、文応元年は四月二十九日に鎌倉で大火があり、六月一日には、やはり鎌倉は大風と洪水に見舞われた。幕府も朝廷も、これらの災厄には施す術を知らず、ただ各宗の高僧等におおせつけて災難退治を祈らせ、また自分もそれに加わるばかりであった。それについては、この次の文に述べられているとおりである。日寛上人の文壇には「正嘉元巳年より文応元申歳に至る巳上四年なり」とある。

天変地夭(てんぺんちよう)
  天変は天空に起こる変動で、暴風、雷、日食、月食等、地夭は地上に起こる変災で、地震等。総じて自然界の変動によって起こる災害をいう。
飢饉(ききん)
  農作物が実らないで、食物が欠乏すること。この当時、農業は、まだ出水に対する充分な防災施設が整わず、輸送力も乏しく、作物の品種改良もなされる以前のことで、大雨や冷夏等の気候の不順によってたちまち飢餓に陥った。今日でも、冷害に襲われやすい北海道、東北、全国的な日照り不足等、飢餓の脅威は依然として去らない。

疫癘(えきれい)
  疫病ともいう。伝染病、すなわち細菌、原虫、スピロへーター、リケッチャ―ー(細菌より小さくビールスより大きい微生物の総称)ビールスなどで起こされる疾患のうち、だいたい急性の経過をたどり、全身的な症状を示し、しかも集団的な発生をするものをいう。仏法の立ち場から疫病が蔓延する根本原因を探ると、 [check]大集経には、「我が法の滅せんを見て捨てて擁護(おうご)せずんば、、、、無量の善根悉く皆滅失して其の国当に三の不祥の事あるべし、一には穀貴(こっき)二には兵革、三には疫病なり」とある。すなわち、邪法が栄え、正法が減しようとして、人々が正法を守らないならば、三災七難が起こる。そのうちの一つが疫病である。正元元年から文応元年にかけて流行した疫病では、一軒として患わない家はなく、飢饉とあいまって死体は道路をふさぎ、国民の大半が死んだといわれている。なお、医学の発達した現代でも、疫病で死ぬ人は多い。仏法をもって根本的解決の道を立てるべきである。さらに、四信五品抄に「国中の疫病(やくびょう)は頭破七分なり」とあるように、広い意味で、一国ないし世界の思想の混乱も疫病と称することができる。

遍く天下に満ち広く地上に迸(はびこ)る
  日寛上人の文壇には「一国二国の飢饉にあらず天下一同の飢饉なり、ゆえに遍満というなり。一邑一郡の(いちゆういちぐん)の疫癘(えきれい)にあらず日本一同の疫癘(えきれい)なり、ゆえに広迸というなり」とある。

牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ
 日寛上人の文段には「仏の死を涅槃といい衆生の死を死という、天子に崩御といい諸侯にこうといい太夫に不録(ふろく)といい、智人を遷化(せんげ)といいあるいは逝去といい、将軍を他界といい、平人を死といいまた遠行(おんぎょう)といい、牛馬の死を斃(へい)というなり。若し人も不義を行うときは牛馬に同じ、ゆえに左伝にいわく『多く不義を行えば必ず自ら斃(たお)る』と云云」とある。

或は利剣即是(りけんそくぜ)の文を専(もっぱら)にし
  浄土宗の教義。中国浄土宗の祖、善導が立てた義。すなわち、その著「般舟讃」の中で、三千仏名経の「罪の縄は心を縛って九百劫を経るとも解け難く脱し難し。唯仏名猛利の剣に在るのみ」の文をとって、煩悩・業・苦を断ちきる利剣は西方安養浄土の弥陀の名号を唱えることであると説いたのを指す。当時、災厄の縛を断ち切るには阿弥陀を念ずる以外にないという法然や、その遺弟等の邪義に迷わされて、念仏が大流行していた。彼らは、民衆が念仏三昧にふけるのを法悦と称し、ついに野たれ死んだり、身を投げて死ぬと、往生を遂げたといって死をあこがれさせたのである。日寛上人の分段には「八万四千の煩悩の病を治せんがため、すなわち八万四千の法門を説く、ゆえに門々不同というなり。中において煩悩業苦の三道の縛を断滅せんがため、利剱は弥陀の名号に過ぎたるはなし、ゆえに利剱即是・弥陀の号というなり、もし宿業等を滅せば何ぞ飢疫(きえき)にせまられん、ゆえに禱爾(とうじ)のためにこれを称(とな)うなり」とある。さらに、日寛上人は、文段に、本文を内外の禱爾、十段の文ありとしている。すなわち
①衆病悉除(しゅうびょうしつじょ)の文を専(もっぱら)にして西土教主の名を唱え
②衆病悉除の順を持ち東方如来の経を誦(ず)し
③病即消滅不老不死の詞(ことば)を仰いで法華真実の妙文を崇(あが)め
④七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え
⑤秘密真言の教に因って五瓶の水を灑ぎ
⑥座禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし
⑦七鬼人の号を書して千門押し
⑧五大力の形を図して万戸に懸け
⑨天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て
⑩万民百姓を哀れんで国主国宰の徳政を行う
しかして、この十段の文のうち、初めの八段は、これ出世(仏法)の禱爾であり、これを四双に分ける。①②は東西一双、③④は文句一双(もんぐいっそう)、⑦⑧は門戸一双である。また通別にも分けられる。初めの六段は別である。①は浄土宗、②③④は天台宗である。なぜなら②の東方如来とは薬師如来のことで、天台宗の本尊であり、比叡山延暦寺の根本中堂の本尊が、これである。③の法華経はもちろん天台宗の依経である。④の仁王経は鎮護国家の三部経の一つであるからである。次に、⑤は真言宗、⑥禅宗である。ゆえに別という。次二段は通、すなわち⑦⑧は実に諸宗に通ずる。ゆえに通というのである。

これより語訳は長くなるので割愛。

講義

立正安国論は、日蓮大聖人の数多くある御書のなかでも、その最高峰にそびゆる書である。それは、末法の全民衆救済の指南書であり、かつまたみらいを映しだして曇りなき明鏡である。時代の変遷にかかわらず、未来永劫にわたる、国家治術の根本の書である、否、いかなる国家、民族にも通ずる、全世界、全人類に真実の幸福をもたらす偉大なる亀鏡である。そしてまた、立正安国論とは王仏冥合論の別名であり、そこに脈打つ民衆救済の大精神は、実に日蓮大聖人の御一生の指針の総体であり、これをおいてほかに、末法の法華経即日蓮大聖人の大仏法を信ずる者の行動はないのである。まことに、この一書こそ、苦悩に沈む民衆を救い、全人類の闇を照らす巨星といえよう。過去、幾度か、歴史に名を残す哲学者、宗教家、思想家等は自己の畢生(ひっせい)の書を世に問うた。しかし、その書によって、幾人の人間の幸福が、また全人類にどれほどの平和がもたらされたであろうか。相次ぐ混乱と動乱にゆさぶられている世界の現状は、まさにこれらの書に対するきびしい審判といえるのではなかろうか。しかし、ここに、ともすれば不安と絶望に流転されゆく人類の未来に、偉大なる光明を与え、希望と勇気をみなぎらせ、現実に、この地上から悲惨の二字を抹殺する力強き、生きた書こそ、この立正安国論なりと叫んでやまぬものである。立正安国論は、日蓮大聖人御年三十九歳(満三十八歳)の文応元年七月十六日、幕府の役人の宿屋左衛門入道光則を通じて、時の権力者・北条時頼にあてた、第一回の国家諫暁(こっかかんぎょう)の書である。その間の事情については序講で論じたごとくである。そして、その形式は、『旅客来りて嘆いて曰くの』冒頭で始まり、旅客と主人の十問九答(第十問は問即答になっている)の問答からなっている。ここに旅客とは、宗教の是非、曲直もしらず、誤れる宗教に執し、迷妄におおわれた一切衆生であり、別しては、時の国家権力者たる北条時頼である。主人とは、一往、愚かな客に対して法華の正法を説き示す人であるが、再往は、実に日蓮大聖人が、日本国の、否、全世界の、一切衆生の主君であらせられることをあらわしているのである。すなわち撰時抄にいわく「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅宗・真言師等が師範なり又主君なり」と。国家諫暁は、たえず、時の最高権力者に対してなされるものだ。したがって、時には天皇に対してなされ、時には幕府に対してなされてきた。鎌倉幕府が滅び、京都に政権が移った時に、日目上人が天奏をおこなったのも、その原理からである。されば、立正安国論の国諫の対象たる客人の内容も、時とともに異なるのは当然である。この民主主義の時代にあっては、民衆に主権がある。さらには、権力者といえども、民衆より送りだされた指導者であることも明確である。すなわち、この立正安国論は、現今においては、苦悩に沈み、絶望の淵にたたされた、日本の、全世界の人々に対してしたためられたものであり、別しては、日本の指導者、全世界の指導者が、旅客にあたると拝すべきであろう。されば、現今の心ある指導者よ、この果てしなき地上の不幸を絶滅せんと心をくだく指導者よ。静かに日蓮大聖人の言々句々を拝せ。大聖人の燃ゆるがごとき、民衆救済の情熱よりほとばしり出ずる正義の言を聞け。されば、活路を切り開くことができることは絶対なりと、心の底より訴えるものである。旅客の最初の質問は、現在の世の中にはありとあらゆる災難が競い起こって、万人が嘆きのどん底にあえいでいるが、これは、いったいなんの禍によるのか、なんの誤りによるのであるかという質問である。大聖人が、災難の由って来る根本原因について説かれるための質問である。

当時の三災七難
  日蓮大聖人が、この立正安国論を著された当時の世相は物情騒然たるものであった。大集経(だいしつきょう)にいわく「我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固(げだつけんご)・次の五百年には禅定堅固(ぜんじょうけんご)次の五百年には読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)・次の五百年には多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)次の五百年には我法の中に於いて闘諍言訟(とうじょうごんしょう)して白法隠没(びゃくほうおんもつ)せん」等云云。

末法の初めは西紀一〇五二年とされる。釈尊滅後、年がたつにしたがって内容が失われ、ますます形式化した釈尊の仏法は、このころから、不思議にも「闘諍言訟・白法隠没」の世相を現出するようになった。わが国では、当時摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある時代で、仏教の退廃は目をおおわしめるものがあり、天台宗ですら、慈覚、智証のために謗法と化し、叡山の僧は僧兵と化して東大寺、興福寺の僧兵とともに争い合う醜状を呈した。「中右記」長治元年(1104年)の条に「近日叡山の衆徒乱る、東西の塔僧合戦す、あるいは火を放って房舎を焼き、あるいは矢にあたりて身命を亡う、修学の砌(みぎり)、かえって合戦の庭となる、仏法の破滅已にこの時なるべきか」と嘆いている。
1059年、あまり放火が多いので、諸門を警護。1082年、動乱の世を象徴するかのように富士山が噴火。1156年、保元の乱。1159年、平治の乱。これは天皇家、摂関家の間で同族が争い合う姿であった。武家においても、保元の乱後、源氏の棟梁 源義朝(よしとも)が、父・為義(ためよし)をはじめ同族の多くを斬らねばならないといtった悲劇も生じた。かくして、仏教の慈悲の精神から約340年間(嵯峨天皇の時代から)廃止されていた死刑も末法に入って信西入道によって復活した。このような時代の民衆は、あきらめと頽廃的(たいはい)的な気分にひたり、それに乗じて浄土宗がひろまり、自殺者を大量に出している。仏法の退廃、政治の乱脈と、仏法も王法もともに尽き、人々の生命力は極度に弱まり始めたこのころから、旱魃(かんばつ)、飢饉(ききん)、大火、地震、疫病(えきびょう)の流行等、人々はいまだかつて見たこともない幾多の災厄に遭遇したのである。1177年(治承元年)には四月から延暦寺衆徒の強訴(ごうそ)が起こって半年以上も都を騒がし、4月18日には宵の口午後8時ごろ、富小路の、ある病人の家から出火し、おりからの大風にあおられて、火は大内裏(だいないり)におよび、都の3分の1を失った。都はじまって以来の大火であった。右大臣藤原兼実(かねざね)は、その感想を「玉葉」に次のように書いている。「五条より南に起こった火が八省諸司におよんだことは未曾有のことだ。このように延焼するのはただごとではあるまい。火災、盗賊、大衆の兵乱、上下の騒動、まことに乱世のいたりだ。人力のおよぶところではない」鎌倉初期の代表的な文学作品の一つといわれる鴨長明の「方丈記」には、この治承元年の大火をはじめ、治承(じしょう)四年(1180)の旋風、寿永年間(1182~83)の全国的な大飢饉(だいききん)、元暦二年(1185年)の大地震等の天変地夭がきわめてリアルに叙述されている。

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