日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

日蓮大聖人

       すばらしき仏法の教え 



日蓮大聖人の御生涯(教学の基礎・仏法理解のために)創価学会教学部編~抜粋させて頂きました。


日蓮大聖人は、貞応(じょうおう)元年(1212年)2月16日、安房国長狭郡東条郷(あわのくにながさごおりとうじょうごう)の片海(現在の千葉県安房郡天津小湊町)の漁村で生誕されました。「日蓮今生(こんじょう)には貧窮下賎(びんぐげせん)の者と生れ旃陀羅(せんだら)が家より出(いで)たり(御書958ページ)と述べられているように、漁業で生計を立てる庶民階層の出身でした。幼名を善日麿(ぜんにちまろ)よいい、十二歳で安房国の清澄寺(せいちょうじ)に入って、いわば初等教育を受けられました。清澄寺は、この地方では有力な天台宗寺院でしたが、当時はここでも密教や浄土信仰が盛んでした。大聖人は十二歳の時から清澄寺の本尊である虚空菩薩に対し「日本第一の智者となし給へ」(御書888ページ)との願いを立てられました。このような願を立てられたのは、当時、大聖人が次のような疑問を抱かれていたからであると諸御書から推定できます。
「承久の乱(1221年)で朝廷側が天台真言の秘法によって勝利を祈ったにもかかわらず、惨敗したのはなぜか」「仏教は釈尊一仏が説いた教えであるのに、なぜ各宗派に分かれて争うのか」要するに民衆を救い、社会の安定を実現するために、仏法はあるはずなのに、現実にその力を発揮出来ないのはなぜかという疑問であり、民衆と社会を救う智者になりたいというのが、幼少の大聖人の願いだったと拝察できます。そこで大聖人は、仏法を究めるために出家を決意します。十六歳の時、清澄寺(せいちょうじ)の道善房を師匠として得度(とくど)し、是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と名乗りました。このころ、一切経(いっさいきょう)の勝劣を知り得る智慧、すなわち、全仏法の根底と言うべき仏の悟りの法である「妙法」の智慧を得られました。このことについて大聖人は「清澄寺大衆中」で「生身(しょうしん)の虚空菩薩から大智慧を給わったことがあった。日本第一の智者にして下さいとの願いを不便(ふびん)とお思いになられたのか、明星のような智慧の大宝珠をくださって右の袖にうけとった」(御書893ページ)と言われています。

そして大聖人は、鎌倉・京都・奈良等の各地の諸大寺を巡る遊学を開始し、一切経を精読するとともに、小乗・大乗も各宗派の教義の本質を検証していかれました。このことについて「一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ」と述べられています。その結果として、大要、次のような結論に至ったと拝察できます。①法華経こそが釈尊の説いた一切経の中でもっとも勝れた教典である。②自身が悟った妙法は、法華経の肝要の法である南無妙法蓮華経である。釈尊の滅後においては、南無妙法蓮華経を人々を救う法として弘めるべきである。③肝要の妙法を悟った自身は、法華経において末法の人々を救う使命を仏から託された地湧(じゆ)の菩薩に当たる。なかんずく、その上首(じょうしゅ)・上行(じょうぎょう)菩薩の再誕として、妙法を末法に弘める法として顕(あらわ)していく使命がある。

「末法」とは、釈尊の仏法が救済の力を失う時代のことで、釈尊んが入滅してから2千年以後とされます。「三時の弘教」を参照。
④今の日本に弘められている諸宗の教義には、正法である法華経に背(そむ)く”謗法”(ほうぼう)の要素がある。この諸宗の謗法を責めれば、大難(だいなん)が押し寄せてくるのは必然である。

立宗宣言

遊学によって妙法弘通(ぐつう)の使命と方途を確認された大聖人は、大難が起きてくることを覚悟のうえで、妙法弘通の実践に踏み出すことを決意されました。そして、建長五年(1253年)4月28日の正午、清澄寺の地仏堂で、念仏などを破析(はしゃく)するとともに、南無妙法蓮華経と高らかに唱えて、末法の民衆を救済する唯一の正法を宣言しました。これがいわゆる「立宗宣言」です。そして、その時、これまでの蓮長の名を改め、自ら「日蓮」と名乗られました。

立宗宣言の際に念仏を厳しく批判した大聖人に対し、清澄寺を擁する安房国東城郷の地頭・東条景信(かげのぶ)は念仏の強信者であったために激しく憤(いきどお)りました。景信は大聖人の身に危害を加えようとしたために、大聖人は清澄寺を退出することとなりました。景信の手を逃れた大聖人は、鎌倉へ出ることになりますが、その前に御両親を正法に導き、父には妙日、母には妙蓮の法名を授けられたとつたえられています。

鎌倉では名越(なごえ)の松葉ケ谷(まつばやがつ)に草庵を構えて、弘教を開始されました。当時、鎌倉に広まっていた念仏と禅宗の破析を中心としながら、法華経の正義を説き、南無妙法蓮華経の題目を唱え、弘められました。

その年の十一月、後の本弟子6人(六老僧)の一人となった弁阿闍梨日昭が松葉ケ谷の草庵を訪ねてきて大聖人の弟子となりました。また在家信徒では、この年、下総国の守護・千葉氏の家臣であった富木常忍(ときじょうにん)が大聖人び帰依しています。その後、大聖人の主張に共鳴する人々が次第に増えて、康元元年(1256年)ごろには四条金吾(しじょうきんご)、工藤吉隆、池上宗仲(いけがみむねなか)らが入信しています。また、大聖人は草庵等での説法とともに、著述活動も開始しました。その頃、「諸宗問答抄」「一生成仏抄」などの著述を残されています。

「立正安国論」の提出と法難

大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震等の天変地妖が相次ぎ」、大飢饉・大火災・疫病などが続発していました。特に、正嘉元年(1257年)八月に鎌倉地方を襲った大地震は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらし、人々を苦悩の底に突き落としました。

大聖人は、この地震を機に、世の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する方途を世に示すため、正嘉二年二月、駿河国(現在の静岡県中央部)の岩本実相寺にこもって一切経を閲読されました。その時、第二祖日興上人が大聖人の弟子となっています。そして大聖人は「立正安国論」を著し、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼(ほうじょうときより)に提出されました。これが大聖人による第1回の国主諫暁(こくしゅかんぎょう)です。

「立正安国論」では、まず天変地妖が続いている原因は国中の人々が正法に背いて邪法を信じていることにあり、その元凶は法然が説き始めた念仏にあると指摘しています。

この一凶を断って正法を信受するならば平和楽土が現出するが、そうでなければ、経文に示されている災難うち、まだ起こっていない自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)(内乱)と他国侵逼難(たこくしんぴつなん)(他国からの侵略)の二つの災難が起こるであろうと警告し、速やかに正法に帰依(きえ)するよう諌(いさ)めています。しかし、幕府要人は、大聖人の至誠の諫暁(かんぎょう)を無視しました。それだけでなく念仏者たちは幕府要人の内々の承認のもとに大聖人への迫害を策してきたのです。

文応元年(1260年)8月27日の夜、執権・北条長時の父・北条重時を後ろだてにした念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、松葉ケ谷(まつばやがつ)の草庵を襲いました(松葉ケ谷)の法難。

幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。翌・弘長元年(1261年)五月十二日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕えて、伊豆の伊東へ流罪しました。(伊豆流罪)。大聖人は、鎌倉の地で船守弥三郎(ふなもりやさぶろう)夫妻に守られ、地頭・伊東八郎左衛門の重病を治して、帰依を受けました。また伊豆の地において「四恩抄」、「教機時国抄」などを著わし、御自身が法華経の行者であることを明らかにされています。弘長三年二月、北条時頼の指示で、伊豆流罪を赦免されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、郷里の安房方面に赴きます。

文永元年(1264年)十一月十一日、大聖人の一行は、安房・天津の工藤吉隆邸へ向かう途中、小松原において地頭・東城景信の軍勢に襲撃されました。この時の戦闘によって弟子の鏡忍房と工藤吉隆が死亡しただけでなく、大聖人も額に傷を負い、左の手を折られました。

㈣ 竜(たつ)の口の法難と発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)

文永五年(1268年)閏(うるう)一月、蒙古(もうこ)からの国書が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵を用いるとの意が示されていました。大聖人は「立正安国論」で予言した他国侵逼難(たこくしんぴつなん)が現実のものとなってきたことから、四月、「安国論御勘由来」(あんこくろんごかんゆらい)を幕府関係者に提出し、悪法への帰依(きえ)を停止するよう諌(いさ)めました。しかし、それでも幕府は大聖人の主張を黙殺(もくさつ)したので、十月、大聖人は時の執権・北条時宗(ほうじょうときむね)をはじめとする幕府要人、ならびに極楽寺良寛(ごくらくじりょうかん)、建長寺道隆(けんちょうじどうりゅう)などの鎌倉諸大寺の僧等、十一ヶ所に対して書状を送り(「十一通御書)」、他宗との公場対決(こうじょうたいけつ)(公おおやけの場での法論)を呼びかけました。

「十一通御書」による働きかけにもかかわらず、幕府も他宗も、誠意ある反応を示しませんでした。それどころか、幕府は大聖人の教団を危険視し、その弾圧を検討していたのです。激しい迫害にも屈せず、大聖人は諸宗の教義の誤りを厳しく破析されていきました。その大聖人の諸宗破析(はしゃく)は「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」との「四箇(しか)の格言」にまとめられています。

文永八年(1271年)に全国的な大旱魃(かんばつ)が起こった時、大聖人は、真言律宗の僧で、幕府と結びついて大きな影響力を持っていた極楽寺良寛が祈雨の法を修することを聞き、その効験(こうけん)の有無をもって勝負することを良寛に申し入れました。それは、もし良寛が七日のうちに雨を降らしたならば、大聖人が良寛の弟子となり、もし雨が降らなければ、良寛が大聖人に帰伏(きふく)する。というものでした。

その結果は、良寛の祈雨の法が行われた6月18日からの7日間、雨は一滴も降らず、良寛はさらに七日の日延べを申し入れて祈りましたが、次の七日間も雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良寛の大敗北となりました。しかし、良寛は自らの敗北を素直に認めないばかりか、大聖人に対する怨(うら)みをさらにつのらせ、配下の念仏僧・行敏の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちに働きかけて、権力による大聖人への弾圧を企てたのです。良寛は、当時の人々から仏法を究めた高僧として崇められていました。しかし、実際には権力と結託して、利益を貪(むさぼ)っていました。

日蓮大聖人は、良寛について、法華経勧持品第十三に説かれている「三類の強敵」(さんるいのごうてき)のうちの「僭聖増上慢」(せんしょうぞうじょうまん)に当たる、といわれています。

「僭聖増上慢」とは、外見では聖人のような形をとりながら、内面では貪欲(とんよく)に執着(しゅうちゃく)し、権力に近ずいて、正法の弘通者(ぐつうしゃ)を迫害する高僧をいいます。

九月十日、大聖人は、幕府から呼び出されて、侍所(さむらいどころ)の所司(しょし)(侍所は軍事・警察を担当する役所、所司は次官のこと、長官は執権が兼務)である平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)の尋問を受けました。この時、大聖人は平左衛門尉にたいして仏法の法理のうえから国を安じていく一国の指導者のあるべき姿を説いて諫暁しました。

二日後の九月十二日の夕刻、平左衛門尉が武装した兵士を率いて松葉ヶ谷(まつばやがつ)の草庵を蹂躙(じゅうりん)し、大聖人は謀反人(むほんにん)のような扱いを受けて捕えられました。この時、大聖人は、平左衛門尉に向かって”日本の柱”である大聖人を迫害するならば、必ず自界叛逆(じかいほんぎゃく)・他国侵逼(たこくしんぴつ)の二難が起こると述べて、強く諌(いさ)めました。

幕府に連行された大聖人は、佐渡流罪の処分を言い渡されましたが、平左衛門尉は内々で大聖人を斬首刑(ざんしゅけい)に処することを図っていました。大聖人は夜半に鎌倉のはずれにある竜の口の刑場に連行されました。しかし、なさに刑が執行されようとしたとき、突然、江ノ島の方から”まり”のような光ものが夜空を北西の方向へと走ったのです。兵士たちはこれに恐れ怖じて、刑の執行は不可能となりました(竜の口の法難)

このことは、大聖人御自身の御一代の弘教のうえから、極めて重要な意義をもつ出来事でした、すなわち、大聖人は竜の口の法難の時に、名字凡夫(みょうじぼんぷ)という迹しゃく(仮のすがた)を開いて、凡夫の身の当体に久遠元初自受用報身如来(くおんがんじょじじゅゆうほうしんにょらい)という本地(本来の境地)を顕されたのです。

これを「発迹顕本、ほっしゃくけんぽん(迹を発(ひら)いて本(ほん)を顕す)といいます。この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としての御立場にたたれました。この御立場のうえから、万人が根本として尊敬し、自身の根源として信じていくべき曼荼羅御本尊を御図顕されました。

㈤ 佐渡流罪

幕府では竜の口での処刑に失敗してから大聖人の処置が定まらず、約一カ月後、大聖人を相模の国の依智(現在の神奈川県厚木市北部)にある本間六朗左衛門(ほんまろくろうざえもん)(佐渡国の守護代)の館に留め置きました。結局、佐渡流罪の処分が最終的に決まり、大聖人は、文永八年(1271年)十月十日に依智を出発し、十一月一日に佐渡の塚原という墓地に建てられた荒れはてた三昧堂に入りました。そこでは、厳寒の気候に加えて、衣食も乏しく、佐渡の念仏者からは命も狙われるという状態でした。翌文永九年(1272年)一月十六日ひは、佐渡だけでなく北陸・信越等から諸宗の僧など数百人が集まり、大聖人に法論を挑んできましたが、大聖人は各宗の邪義をことごとく論破しました(塚原問答)。

また二月には北条(ほうじょう)一門内部の同士討ちが起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました(二月騒動)。大聖人が竜の口の法難の時に予言した自界叛逆難が、わずか百五十日後に現実になったのです。その年の初夏、大聖人の配所は、塚原から一谷(いちのさわ)に移されましたが、念仏者たちに命を狙われるという危険な状況に変わりはありませんでした。

こうしたなか、日興上人は、大聖人に常随給仕して苦難をともにされました。また、佐渡の地でも、大聖人に帰依する人々が現れてきました。阿仏房夫妻、国府入道夫妻、中興入道、最蓮房日浄などです。また、大聖人は佐渡で多くの重要な御書を著わされていますが、とりわけ重要な著作が「開目抄」「観心本尊抄」 (かんじんのほんぞんしょう)です。

文永九年二月に著わされた「開目抄」は、日蓮大聖人こそが主師親(しゅししん)の三徳を具えられた末法の御本仏であることを明かされているところから、「人本尊開顕の書」といわれます。また文永十年(1273年)四月に著された「観心本尊抄」は、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について説き明かしており、「法本尊開顕の書」といわれます。文永十一年二月、大聖人は赦免され、三月十三日に佐渡を発って鎌倉へ帰られました。四月に平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)と対面した大聖人は、蒙古調伏の祈祷を邪法によって行わないようにと幕府を強く諌めるとともに、平左衛門尉の質問に答えて年内に必ず蒙古が襲来すると予言されました。この予言のとおり、同年十月に蒙古の大軍が九州を襲ったのです(文永の役)

これで自界叛逆難・他国侵逼難(じかいほんぎゃく・たこくしんぴつ)の二難の予言が的中したことになりました。
大聖人は、①「立正安国論」の提出による諫暁(かんぎょう)と予言、②平左衛門尉が捕えにきた際の諫暁と予言③佐渡流罪赦免後の幕府に対する諫暁と予言の三つを「三度の高名」といわれています。

㈥ 身延入山

佐渡流罪後の諫暁も用いられなかったため、日蓮大聖人は”三度国を諌めても、用いなければ山林に交わる”という故事にならい、甲斐国(現在の山梨県)波木井郷(はきいごう)の身延山に入ることを決意されました。身延の地は、日興上人の教化(きょうけ)によって大聖人の門下となった波木井六朗実長が、地頭として治めていました。

大聖人は、文永十一年(1274年)五月十七日に身延の波木井実長の館に着き、六月十七日に身延山中に質素な庵室を結んで住まわれました。しかし、大聖人の身延入山は、単なる隠棲(いんせい)ではありませんでした。身延において大聖人は、令法久住(りようぼうくじゅう)のため、「撰時抄」、「報恩抄」などの数多くの御書を執筆し、大聖人の仏法の人類史的な意義を説き示されただけではなく、法華経の講義などを通して、未来の広布を担う人材の育成に、全力を注いだのです。また、多くの御消息を書き、在家信徒一人ひとりの信心を激励し、各人が人生の勝利を得られるよう指導を続けられました。
さらに、日蓮大聖人の仏法の奥義(おうぎ)が日興上人等に口伝されましたが、それらは「御儀口伝」等の講義録、また、「百六箇抄」(ひゃくろっかしょう)、「本因妙抄」(ほんにんみょうしょう)等の相伝書としてまとめられ、残されています。

㈦ 熱原(あつはら)の法難と大御本尊御建立

日蓮大聖人の身延入山後に、駿河国(するがのくに)(現在の静岡県)の富士方面では、日興上人が中心となって折伏・弘教が進められ、天台宗などの僧侶や信徒が、それまでの信仰を捨てて大聖人に帰依するようになりました。そのために、旧来の天台宗寺院である四十九院や実相寺などによる迫害が始まり、熱原郷(あつはらごう)の滝泉寺では院主代の行智が策謀して、農民信徒を脅迫する事件が起こりました。

弘安二年(1279年)九月二十一日、熱原の農民信徒二十人が、院主の田に押し入って、稲を刈り取ったという無実の罪で逮捕され、鎌倉に連行されました。農民信徒は侍所の所司・平左衛門尉の私邸で厳しい取り調べを受け、法華経の信心を捨てるよう、脅されましたが、全員がそれに屈せず、信仰を貫き通しました。その結果、神四朗・弥五朗・弥六郎の三人の兄弟が処刑され、残りの十七人は追放されました。(十月十五日、一説には翌年四月八ひ)。これが「熱原の法難」です。

農民信徒たちの不惜身命(ふしゃくしんみょう)の姿に、大聖人は、大難に耐える強き信心が、民衆次元に定着したことを感じられて、十月一日に著された「聖人御難事」で「出世の本懐」を遂げる時が来たことを宣言されました。そして、その宣言通り、弘安二年十月十二日に一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)(全世界の人々に授与するとの意)の大御本尊を建立されたのです。

「出世の本懐」とは仏がこの世に出現した目的という意味で、大聖人が世に出現されたのは、末法万年の一切衆生を救うという御自身の大願を実現するためにほかなりません。熱原の法難における、民衆の強き信心に呼応して御図顕された弘安二年(1279年)の大御本尊は、全民衆救済という日蓮大聖人の大願を込めて、広宣流布のために顕されたのです。

㈧ 日興上人への付属と御入滅

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

k.u