私が学んだ仏法哲学5
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「瞬間に起った生活の事実を、たえず未来の原因とする、あるいは原因でなければならぬと決定するのが、本因妙の仏法であります」御本尊をしっかり信じまいらせた生活は、日常の事件を清らかな久遠の因として活動するのであり、また御本尊様の功徳によって、はかりしれない生命力が湧くのでありますから、それが結果となるときには、かならずよい結果が生ずる筈なのであります」
本院・本果は、我々の一念に具しているのです。因果具時です。ゆえに我々は、生活のうえに起るいかなることも、よしんばそれがどんなに不幸な結果であったとしても、信心の一念によって、久遠の本因_幸福の根本原因としていける。清らかな本源の生命から出発していけるのです。それによって、揺るがぬ幸福境涯へと生命全体が向かっていく。これが「本因妙の生き方です」。
本因の心は、”人間の尊厳を開く実践”にあります。このことを端的に示しているのが、寿量品(じゅりょうぼん)の「我本行菩薩道」(が、ほんぎょう、ぼさつどう)の文(もん)です。
「我」とは、久遠において菩薩道を実践した「凡夫の釈尊」です。我々と同じ人間です。決して人間を超えた何者かではない。
久遠とは生命の本源であり、生命の本源に立ち返った久遠の凡夫が「本因妙の釈尊」(ほんにんみょうのしゃくそん)です。
この「本因妙の釈尊」を本尊とするのが、大聖人の仏法なのです。
久遠における「本因妙の釈尊」は、すなわち末法の御本仏・日蓮大聖人であられる。久遠即末法です。このことは大聖人の次の仰せから明らかです。「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計(けにばかり)も違(たが)わざるなり」(御書863ページ)
御本尊の功徳「色香美味。皆悉具足」御本尊を受持した人は、速やかに苦悩が除かれるだけでなく、患いのない幸福境涯が現出するのです。文底から読めば、このっ経文は、日蓮大聖人が末法のあらゆる人々に対して、誰人も必ず幸福になれると宣言されている一節になります。
毒気深入とは「権教謗法の執情」が深く入った者である。このために法華経の大良薬を信受することが出来ないのである。低い教えに執着し、勝れた教えを劣っていると非難する、傾倒した判断、姿勢をいいます。向上の心を忘れて低い生き方に執着し、逆に、高い志を持って真剣に生きる人々を批判する態度にも通じるでしょう。治療を求めているが、結局、薬を拒絶して飲まない、つまり誰もが真剣に生きようと心の底では願っている。しかし、ひたむきさ、勇気、善意、知性など、人間精神の「善なる力」が衰弱してしまっている。それは、 社会に確固たる「哲学」「思想」がないからです。だから、価値観が定まらず、善と悪、真と偽、無私と私欲、崇高なものと卑しいもの、とを顚倒してしまうのです。
「常楽我浄」 仏法では享楽的な現実が永遠に続くと錯覚することを「四顚倒」といいます。すなわち、享楽を追い求める次元での「常・楽・我・浄」です。刹那的な快楽、お金や世間的な名声などが、”永遠に続く””楽しい””自分らしい””素晴らしい”と思い込んでしまう生き方です。こうした考えにとらわれる人たちのために、釈尊は初め「無常・苦・無我・不浄(空)を説き、享楽への執着を厳しく批判したのです。そして方便の教えによって、その人の境涯を高めたあと、 法華経に来て、最終的に、真の崩れざる「常・楽・我・浄」を示すのです。はつらつたる生命の輝き、正しい価値観、生命尊重の思想、菩薩の行動を周囲に、毅然と広げていく。そこにこそ、顚倒の社会を転換していく道が開かれるのです。
「冬は必ず春となる」 (御書一二五三ページ) [#h88a615d]
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