私が学んだ仏法哲学7
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「一心欲見仏 不自惜身命」 いっしんよっけんぶつ ふじしゃくしんみょう (一心に仏を見たてまつらんとほっして みずからしんみょうをおしまず)
心の底から仏を見たいと念願し、自らの身命も惜しまない。そうした、素直な信心、求道の心、不惜の実践がある時、仏は多くの弟子たちとともに霊鷲山(りょうじゅせん)に出現する。すなわち、いつでも仏に会えるという事です。
戸田先生の講義の中に_我々の生命の中に、厳然と仏様が顕れますれば、もう我々には不幸がないはずなんです。すなわち、我々が御本尊様を拝んでいることは、我々は気がつきませんけども、我々の生命の中に御本尊様がちゃーんと顕れていらっしゃる。
我々の体が霊鷲山になる、そこで、大聖人様即大御本尊の力が、我々の体に満ち満ちてくるのです。
御本尊への強情な信心に立つ人は、その「時」その「瞬間」に、我が生命に仏の生命が湧き現れるのです。その人のいる所が、仏のまします霊鷲山_仏国土となるのです。
日寛上人(にちかんしょうにん)も「我等この御本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(観心本尊抄文段、かんじんのほんぞんしょうもんだん)といわれている。
自身の胸中(きょうちゅう)に、即、御本尊の生命が、大聖人の生命が湧現(ゆげん)するのです。これほどの大功徳(だいくどく)はありません。心に仏界という最高の秘宝を持っていない人はいません。この平等性に「法華経の心」があります。そして、末法(まっぽう)の全人類の誰もが、その宝の箱を開けられるようにしたのが「日蓮大聖人の心」です。その箱の扉を開く鍵が、「一心欲見仏の”信”と、「不自惜身命」の”行”にあたります。真剣な求道と実践こそ根幹となるのです。
ただし、「不自惜身命」といっても、当然、生命を軽んずることではありません。それは法華経の心に反する。この経文の真意は、小我(しょうが)に執着(しゅうじゃく)する自己を惜しまず、それを乗り越えて、大我_真の自己に生きることにあるのです。真の不自惜身命とは、妙法を根幹に、現実社会の中で生き抜くことです。最大に自己の可能性に挑戦することです。
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