日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

感銘した言葉2

感銘した言葉2

内科医(豊福裕幸)氏 [check]『病気が心を耕して、深く、大きくしてくれる」ヒルティ(スイスの哲学者)河の氾濫が土を掘って耕すように、病気はすべての人の心を掘って耕してくれます。病気を正しく理解してこれに耐える人は、深く、強く、大きくなり、それまで理解できなかった識見や信念を体得するにいたります。

「大病を患った人は人生の深さを知っている」戸田城聖

池田大作名誉会長
   何事も [check]「小事」が「大事」です。小さなことを軽く考えてはならない。日蓮大聖人は「しっかりした田のあぜでも、アリの大きさほどの小さな穴があったならば、たまっている水も必ずそこから漏れて、ついにはなくなってしまう」御書1308ページと教えられています。

「健康」と「生命」に勝る宝はありません。
大聖人は仰せです。 [check]「生命というものは、あらゆる財宝のなかで最高の財宝です。『宇宙に遍く敷き満つる財宝といっても、身命に値するものはない』と経文に説かれているように、「宇宙に満ち溢れた財宝であっても、生命には換えられない」御書1596ぺージ
[check]「命こそ宝」との思想を広げていく、、、「健康な地球」も、この一点から出発するのではないでしょうか。

仏法の深き生命観から言えば、本有(ほんぬ)「生」であり「死」である。死は「終わり」ではなく、新たな生への「旅立ち」です。明日への活力を得るために「睡眠」を取り、リフレッシュし「充電」する。それに似て、「死」は次の素晴らしき「生」への飛翔となるのです。かって、「ョーロッパ統合の父」クーデンホーフ・カレルギー博士と対談した際、博士は語っておられた。「東洋では、生と死は、いわば本の中の一ページです。そのページをめくれば、次のページがでてくる、つまり新な生と死が繰り返される_こういった考えだとおもいます。ところがョーロッパでは、人生とは一冊の本のようなもので、初めと終わりがあると考えられています」「池田大作全集第百二巻」、東西の生死観を端的に要約した印象的な言葉です。


久遠の凡夫・釈尊は、南無妙法蓮華経を修行して成仏しました。「因果俱時・不思議の一法」(御書513ページ)と言われるように、本因・本果は南無妙法蓮華経の一法に具わっています。そして「因果一念」と言われるように、南無妙法蓮華経の一念を信ずる一念に、本因・本果は具わるのです。
この「一念の妙」が、大聖人の「本因妙の仏法」の極意です。また、一念三千の究極です。凡夫の一念にも本因・本果がともに具わるのです。1念が変れば、一切が根底から変わるのです。
本因・本果を一念の生命に見る文底仏法の生命観は、私達に大変重要な生き方を教えます。すなわち、つねに生命本源の出発点に立って、未来への新たな前進を開始することを教えるのです。

私達は瞬間瞬間、幸・不幸や苦・楽を感じて生きています。
その現在の一瞬の生命は、過去の原因によってもたらされた結果です。
[check]「瞬間に起った生活の事実を、たえず未来の原因とする、あるいは原因でなければならぬと決定するのが、本因妙の仏法であります。

「御本尊様をしっかり信じまいらせた生活は、日常の事件を清らかな久遠の因として活動するのであり、また御本尊様の功徳力によって、はかりしれない生命力が涌くのでありますから、それが結果となるときには、かならずよい結果が生ずるはずなのであります」
本因・本果は我々の一念に具しているのです。因果俱時です。
[check]ゆえに我々は、生活のうえに起るいかなることも、よしんばそれがどんなに不幸な結果であったとしても、信心の一念によって、久遠の本因_幸福の根本原因としていける。清らかな本源の生命から出発していけるのです。それによって、揺るがぬ幸福境涯へと生命全体が向かっていく。これが「本因妙の生き方」です。


病める時代に仏は”生きる力”を贈

現代は、人々が、力ある思想や信念の生き方を見失った時代です。生命力が衰弱し、魂が病んでいる。人類全体が「宛転于地」(えんでんうじ)となる危険性をもっている。だから「人間」を根本にした哲学を、一人の人間の可能性と尊貴を徹底して説いた思想を、人々は求めているのです。

戸田先生は語られました。「この娑婆世界というものは、本当は我々が遊びに来たところなんです、楽しむためには、苦しみというものがちょっぴりなくては楽しみの味は出てこない。ところが、遊ぶどころの騒ぎじゃない。くるしみだらけでしょう」と戸田先生は、ご自分がどんなにお疲れであっても、全魂を注いで激励されました。戦う人、病める人を、大生命力で包んでいくのが学会です。

「権力者は、仏塔や寺院を破壊することはできても、仏法を破ることはできない、と日蓮大聖人は洞察されている。心を外から破ることは不可能です、、、、今は三毒がますます強い時代になってしまった。現代の行き詰まりは、「心の変革」を人類が忘れたところにあります。それが二十世紀の教訓です。あらゆる分野で、「心の毒」を除く哲学が求められている。”妙法の大良薬”を、全人類が渇望しているのです。

「御義口伝」には、「毒気深入」とは [check]「権教謗法(ごんきょうぼうほう)の執情(しゅうじょう)が深く入った者である。このために法華経の大良薬を信受することができないのであると。
[check]低い教えに執着(しゅうじゃく)し、勝れた教えを劣っていると非難する、顛倒(てんどう)した判断、姿勢をいう。
健康と生命と仏法を語る~ 著者 池田大作より抜粋

治療を求めているが、結局、薬を拒絶して飲まない、、、。つまり誰もが真剣に生きようと心の底では願っている。しかし、ひたむきさ、勇気、善意、知性など、人間精神の「善なる力」が衰弱してしまっている。それは、社会に確固たる「哲学」「思想」がないからです。だから、価値観が定まらず、善と悪、真と偽、無私と私欲、崇高なるものと卑しいもの、とを傾倒してしまうのです。

仏法では、享楽的な現実が永遠に続くと錯覚することを [check]「四顛倒」と言います。すなわち、享楽を追い求める次元での「常・楽・我・浄」です。刹那的な快楽、お金や世間的な名声などが、”永遠に続く” ”楽しい” ”自分らしい” ”素晴らしい”と思い込んでしまう生き方です。こうした考えにとらわれる人たちのために、釈尊は始め、「無常・苦・無我・不浄(空)を説き、享楽への執着を厳しく批判したのです。そして、方便の教えによって、その人の境涯を高めたあと、法華経に来て、最終的に、真の崩れざる「常・楽・我・浄」を示すのです。

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