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私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

第六章 宗教批判の原理

第六章 宗教批判の原理

現在の日本には種々の宗教があるが、世人はこれを批判する基準をしらない。特に知識階級ぐらいはこれを知っていてよいはずだが、宗教教育のないために全く盲目であり啞法の尊者のようであるのは遺憾というより外はない。しからば宗教批判の原理とは何か。
文証・理証・現証の三証と、教・機・時・国・教法流布の先後という宗教の五綱と、五重相対等について考察しなくてはならない。

第一節 文証・理証・現証(三証)

宗教を批判するにはまず文証・理証・現証ということが大切である。

一、文証
Aなる宗教があった場合、まずその宗教が依経とするものは何かということを究めなくてはならない。第一は文(もん)の証拠を求めるのである。仏教以外の宗教なら、仏教経典とAなる宗教の用いる教典とを比較研究しなくてはならない。教典、教義のないような宗教は宗教とはいえないのである。仏教の最高哲理を知らない者はいざ知らず、これを知る者は、仏教以外の宗教の経文は低級なものであることを、ただちに知ることができるのである。Bなる宗教が仏教内の教えである場合は、第三節の五重の相対(ごじゅうのそうたい)等によって、その経文の高低、深浅(じんせん)、価値の正反などを判定するのである。これが文証を求めるということである。

二、理証
理証とは文証があるとして、その文証が哲学的に研究して現代の科学と一致しかつ理論として文化人が納得できるかどうか、又は肯定し得るかを研究しなくてはならない。いかに経門は立派でも哲学的価値がなかったならばこれは捨てなければならない。哲学とは思惟(しゆい)することであるが、これがいかに立派に思惟されていても科学的でなくてはならない。すなわち普遍妥当性を有していなくてはならない。同一原因は同一結果を時と所とによらず具現しなくてはならない。かつそれが最高の価値をもたらす結論を有しなくてはならない。すなわち幸福を証明づける理論でなくてはならないのである。しかもその幸福は万代不易の幸福であって、いかなる事件にもたたき壊されるようなことのない幸福でなければならないのである。
三、現証
現証とは事実・生活の上に証明されるものである。もともと最高の宗教は人間革命にあり宿命の打破にある故にこの理を完全に説明できる科学でなくては最高の宗教とはいえないのである。すなわち現証とはその宗教を実践するに当たっていかなる現実の証拠が生活に現れるかという実験証明である。太平洋戦争中は日本全国民がいかに神様を拝んでも神風は吹かないし幸福という現証も起こってこなかったのである。日蓮大聖人も現証には非常に重きをおかれている。立正安国論に浄土宗を破折(はしゃく)せられておられる時も現証論を次のごとく御説き遊ばしている(御書25ページ)

「慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、『唐の武宗皇帝・会昌元年勅して章敬寺(しょうきょうじ)の鏡霜(きょうぞう)法師をして諸寺に於いて弥陀念仏の教を伝えしむ寺毎に三日巡礼することたえず、同二年回鶻(かいこつ)国の軍兵等唐の堺を侵す、同三年河北の節度使忽ち乱を起す、其の後大蕃国(だいばんこく)更(ま)た命を拒み回鶻国重ねて地を奪う、凡そ兵乱秦項の代に同じく災火邑里(ゆうり)の際(あいだ)に起る、何(いか)に況(いわ)んや武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す乱を撥(おさ)むること能(あた)わずして遂に以て事有り』此れを以て之を惟(おも)うに法然は後鳥羽院の御宇(ぎょう)・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、然らば即ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す、汝疑う事莫(な)かれ汝怪むこと莫れ唯須(すべから)く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎぬ根を截(たつ)べし」

以上は邪教が国家に及ぼした現証をお教えくださったのであるが、個人を含んでの現証をお説きくだすったものに弘安二年の聖人御難事御書がある。(御書1,190ページ)

「大田の親昌(ちかまさ)・長崎次郎兵衛の尉時綱(じょうときつな)・大進房が落馬等は法華経の罰(ばち)のあらわるるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四候、日本国の大疫病と大けかち(飢渇)とどしうち(同士打)と他国よりせめらるるは総罰なりやくびょう(疫病)は冥罰(みょうばつ)なり、大田等は現罰なり別ばちなり、各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをずる事なかれ」

かくのごとく宗教を論ずるに当たっては証拠を第一とするのである。日蓮大聖人が末法の仏であると断ずるのも文証として法華経の上に明らかであり、その文証通り大聖人の御生活に現れたが故に我々は信ずるのである。法華経の中に「而かも此の経は如来の現在にすら猶怨嫉(なおおんしつ)多し、況や滅度の後おや」とあるが、釈迦滅後に大聖人ほど法華経のために憎まれあだまれた方は一人もないのである。これは現実の証拠であり、又これが末法の時であるから理証の上からいっても末法(まっぽう)の本仏なのである。このように仏法においては現証を尊ぶのであって、大聖人が三三蔵祈雨事(御書1,468ページ9に「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」とおおせられているのがこれである。しかしまた文証通り理証の通り現実生活に実験せられることを尊ぶからといって、セキが出た、それ現証だ、風邪をひいた、それ現証だなどというのは誤りである。

第二節 教・機・時・国・教法流布の先後(五綱)

一、教
宗教の五綱のうち、教とはいかなる教えが民衆を幸福に導くかをきわめることにあり、いかなる教えが末法今時に適切であるかを知るにある。この批判の基準は五重の相対・三重秘伝等で次の項に明らかにする。日蓮大聖人の教機時国抄(御書440ページ)には次のごとく仰せられている。
「所所以に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり、但し光宅の法雲・道場の慧観等は涅槃経は法華経に勝れたりと、清涼山の澄観、高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと、嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりという、天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず、法華経に勝れたる経之れ有りと云わん者を諫暁せよ止めずんば現世に舌口中に爛れ後生は阿鼻地獄に堕すべし等と云云。 [check]此等の相違を能く能く之を弁(わきま)えたる者は教を知れるものなり、当世の千万の学者等一一に之に迷えるか、若し爾らば教を知れる者これ少なきか、教を知れる者之れ無ければ法華経を読む之れ無し、法華経を読む者之れ無ければ国師となる者無きなり、国師となる者無ければ国中の諸人・一切経の大小・権・実・顕密の差別に迷うて一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法の者と成り法に依って阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵(みじん)よりも多く法に依って生死(しょうじ)を離るる者は爪上(そうじょう)の土よりも少なし、恐る可し恐る可し」大聖人は末法今時に法華経こそ勝れたり唯一絶対なりと知るのが教を知る者なりとの御断定である。しかしこの法華経は釈迦の二十八品の法華経でもなく又像法の天台の摩訶止観でもない。末法下種文底秘沈の南無妙法蓮華経の七文字の法華経である。この五字・七字の法華経こそ末法唯一の教と知るを教を知るものといえるのである。

二、機

さて機を知るとは、民衆の機根がいかなる教えによって成仏するか、すなわち永遠の幸福を得るにはいかなる教えによって得られる民衆かと、民衆の機根を知ることである。今ごろ三年も五年も十年も座禅などやって、ゆっくりかんとして座って考えているようなものは、末法の衆生とはいえないのである。法華経二十八品を書写しなくては功徳がない、成仏できない、幸福になれないなどといったら大変なことである。民衆は仏教なんて面倒くさいものだと思うであろう。科学の進んだ今日、金や木で作った仏像を拝むほど皆は馬鹿ではない。金や木で作った仏像を拝んで功徳があるとは思うまい。今日の仏法は久遠元初の自受用報身・末法下種仏法の本仏日蓮大聖人の文底秘沈の大法・本地難思境智冥合の大御本尊を受持して、唱題成仏の機根と知るを機を知るというのである。

三、時

時を知るとは、今は末法の時である。釈迦の仏法は効力を失い民衆は遠離(おんり)して邪宗横行して正邪を分たず、民衆は仏法にくらく邪宗と正宗との区別を知らずにみな本尊に迷っている時である。かかる正しい仏法が興って民衆を救う時である。正しい仏法とは全東洋、全世界を救うべき宗教である。今こそ日蓮大聖人がお残し下さった本尊の弘まりたもう時と知るを、時を知れる者というのである。最高第一の本尊の全東洋にひろまる時は、いかに東洋は平和にかつ明るくなることであろう。

四、国

国を知るとは、日本国は大乗の国であり、すでに日蓮大聖人の三妙合論の仏法があり、一閻浮堤総与(いちえんぶだいそうよ)の御本尊がいますのである。しかも末法には日本の仏法が中国印度へと日の西を照らすがごとく弘まるのであると御予言遊ばされている。この御予言は絶対に間違いないのである。この故に日本国こそ一大仏法建立の国である。これを知れるを国を知るというのである。

五、教法流布の先後

大聖人の御書に云く(御書439ページ)
「五に教法流布の先後とは未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聞かざる者あり、既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり、必ず先に弘まる法を知って後の法を弘むべし、先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし、先に大乗弘まらば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫(がりゃく)を捨てて金珠を取るべし金珠(こんじゅ)を捨てて瓦礫を取ること勿(なか)れ」と。しかるに日本国はこの仏法流布の定義を破っているが故に不幸が続出しているのであると大聖人は御嘆きになり、これを是正して日本国を安泰ならしめんと大獅子吼(だいししく)をなさったのである。それがためにも御本仏御出現を喜び御命令に従わねばならないのに、七百年のあいだ御命令にそむいて亡国となったことは憾(いた)みても余りあるのである。されば同じ御沙汰に次のごとく御仰せである。(御書441ページ)
「建仁より已来今に五十余年の間・大日・仏陀・禅宗を弘め、法然・隆寛・浄土宗を興し実大乗を破して権宗(ごんしゅう)に付き一切経を捨てて教外を立つ、譬えば球を捨てて石を取り地を離れて空に登るが如し、此は教法流布の先後を知らざる者なり。仏誡めて云く『悪象に値うとも悪知識に値わざれ』等と云云、法華経の勧持品(かんじぼん)に後の五百歳・二千余年に当って法華経の敵人・三類有る可しと記し置きたまえり、当世は後の五百歳み当たれり、日蓮・仏語の実否を勘うるに三類の敵人之れ有り之を隠さば法華経の行者に非ず之を顕さば身命定めて喪(うしな)わんか」
さて以上にてわかるように日蓮大聖人は御身命を捨てて三類の強敵と斗い末法下種の仏法を建立せられたのである。教法流布の先後の義によって当今は日蓮大聖人の仏法ぼ弘まるべきこと明々白々である。当今の日蓮大聖人の仏法を大観するに又、教法流布の義が明らかにみられるのである。

日蓮大聖人の仏法は三大秘宝である。

三大秘宝とは、本門の題目・本尊・戒壇の三法である。しかして大聖人化導の順序を拝するのに、まず題目を流布せられ次に本尊の御建立があり、次いで国立戒壇の建立を予言あそばされている。大聖人の宗旨御建立より七百年、日本国中に題目は流布された。正邪にかかわらず題目は流布されたが、さてみな本尊に迷うているのである。本尊の邪正を糾明し宗教の邪正を判ずべき時がきた。しかも亡国の状態はいよいよ本尊流布の兆しである。唯一最高の本尊がいよいよこれから東洋へ世界へと広宣流布する時が来たのである。

第三節 五重の相対

一、内外相対

内道と外道の比較論である。

 内道とは仏教の事で、外道とは仏教以外の宗教即ちバラモン・キリスト教・儒教等の事でこの比較の基準は因果の理法にある。仏教は因果の理法を根幹とし、原因あれば必ず結果があると説き、これが一法則ごとに定っており科学的である。即ち水素の二体積と酸素の一体積と化合せしむれば必ず二体積の水蒸気がえられる。酸素と水素の化合という原因で水という結果がえられる。これが科学でこの法則は時と所によらないのである。同様に仏法の法則も、同一原因は同一結果を時と所とに関係なく現すゆえに科学なりと主帳するのである。外道はこの原因がはっきりしていないから内道より劣るが故に、内下相対して内道は外道に勝れるのである。

二、大小相対

仏教の中にも大乗教と小乗教がある。

 小乗教は釈迦が説法を始めてから十二年間の説で、俱舎宗・成実宗・律宗等をさし、それ以後の説法を大乗教という。乗とは「乗せる」ということで、小乗教は小部分の人をある期間中だけ教えるのであって、大乗教はあらゆる多数の人を永い間に救える教えである。この故に大乗教は小乗教に勝るのである。しかして小乗教は日本にはほとんどなく、今天理教や日蓮宗と称する邪宗教あるいは新興宗教が、この理法をもじって使っているのはおかしなことであり、時おくれの暦(こよみ)を表紙だけ取りかえて使っているようなものである。

三、権実相対

大乗教の中にも権大乗と実大乗とがある。

 華厳経三十七日の説法、方等部十六年間の説法で法相宗・浄土宗・禅宗・真言宗の依経と、般若部十四年間の説法と三論宗の依経等が権大乗(ごんだいじょう)である。この教は [check]方便の教えで未だ真実の教えではない。仏智をもって衆生(しゅじょう)の機根(きこん)を観じて、これに応じて説かれたもので、しばらく「権」(かり)の教えをたてて、二乗の連中が小乗教によって見思の惑を断じて仏と等しと思っているのを、方等部で弾呵(だんか)し般若(はんにゃ)部で誘引しているのである。権謀(ごんぼう)の教えといっていまだ真実の教えたる宇宙の根本哲理・生命の真実観は説かないのであるから、これを説いた実教よりは劣るのである。

四、本迹相対

実教とは釈迦最高の説法たる法華経部八カ年の教えであるが、これに本迹二門の理がある。

 法華経二十八品の前十四品を迹門(しゃくもん)といい、後の十四品を本門(ほんもん)という。迹門は印度で仏となった釈迦が理論上の実相観をのべたのであるが、本門は釈迦が永遠の生命観に立って宇宙及び生命の実相を述べたものである。即ち迹門は理論上の問題を取り扱ったもので事実上の問題を取り扱っていない。例えば百万円というお金は、五十万円の二倍だとか、三十万円に七十万円を加えたものであるとかいう事で、本門は今七十万円の現金をもっており、それで買った物を売ると現実に百万円の財産になるという事実である。七十万円に三十万円を加えると百万円に成るという事は、七十万円で買ったものが三十万円もうかって百万円になったという事実から現れた事であり、これが「本によって迹をたれ、迹によって本を顕す」ということである。百万円の金の勘定を計算の上でいくらしていても何の役にも立たない。隣の財産を数えるみたいなものである。百万円持つか持たぬかは実際生活である。この理より考えて本門は迹門より尊いのである。法華経二十八品について論ずるなら釈迦の時代においては、迹化(しゃっけ)の菩薩人天(ぼさつにんてん)もみな本門に来入して成仏することができた。即ち本門に至って仏の境涯(きょうがい)を感得したのである。又像法中天台の一門は迹面本裏(しゃくめんほんり)ともいって迹門を面(おもて)とし本門を裏として一切衆生を救ったのである。故に「本迹異なりと雖(いえど)も不思議一なり」と称し、迹門の理より本門の義を悟らしめ得脱(とくだつ)せしめたのである。正法像法(しょうほうぞうほう)いずれにもせよ迹門によっては仏になりえず、本門によって成仏したのである。されば法華経の後十四品を本門と称すと雖も釈迦天台の仏法であって、本門は迹門より高いというが、末法(まっぽう)の用はなさないのである。よって大聖人は末法には、余経も法華経も詮(せん)なしと仰せられているのである。

五、種脱相対

仏法の修行にごく大切なことを現代の人々は忘れている。

 ここに宗教の混迷を生じかつは、その批判に大なる誤謬(ごびゅう)をきたしており、従って宗教の価値を単なる修養位に考えてしまうのである。種・熟・脱(しゅじゅくだつ)の三義がそれである。種とは下種の事で仏になる其根の原因と関係すること、すなわち仏に会って仏になる種をうることである。大聖人の仰せにも曾谷殿御返事(御書1056ページ)に [check]「法華経は種の如く仏はうえての如く衆生は田の如くなり」と。熟とは過去の下種が薫発し調養することをいうのであり、脱とは下種された仏種が調養して、遂に仏と等しき境涯をうるというのである。これみな大利益であるが故に三益といい、下種益・熟益・脱益(げしゅやく・じゅくやく・だっちゃく)というのである。さて仏教を通観するに釈迦は以上の三つの利益(りやく)について、どの利益を衆生に給わったかというに脱益(だっちゃく)なのである。過去に種々の仏・菩薩になっていた時、結縁(けつえん)した衆生が釈迦の時代に生まれてきて、過去に調養し、又、釈迦の時代に調養して遂に法華経にいたって仏の境智をえたのである。故に釈迦の出世も本懐は過去の下種を熟しめんがためである。何の縁もなき衆生がポツンと法華経に来入しても得脱はできないのである。しかして過去に下種されながら釈迦の寿量品にあえなかった者、又印度に出現したときに下種された者たちは、正法一千年・像法一千年間に調養し脱したのであるが、まだまだ衆生が残っている。しかして像法になってきたので薬王菩薩の後身たる天台大師が出現して、熟益の仏法たる理の一念三千の珠を摩訶止観につつみ一切衆生にあたえたのであある。ここにおいて過去の下種の者は熟益の仏法に会い、調養しつつ自然に得脱(とくだつ)せしめられたのである。されば印度降誕(インドこうたん)の釈迦の仏法は、脱益・熟益の仏法で下種益の仏法ではないのである。
さてしからば末法はいかん。我々末法の衆生は釈迦の仏法に何の結縁もないということを、大前提として知らなくてはならない。何の縁もないが故に釈迦仏法においては下種もなければ熟もない。故に釈迦五十年の経々に於いては、成仏ができないから、現世に成仏の証拠としての幸福は掴みえないのである。釈迦は過去の下種した衆生を整理して成仏せしむる益で脱益といい。末法は下種益して成ぜしむるのであるから種の仏法という。種の仏法と脱の仏法とは根本的に違っているので、末法今時においては、種の仏法こそ絶対に必要なのである。故に脱益の仏法を捨てて下種の仏法をとらなくてはならぬ。これを種脱相対して仏法を批判するというのである。かく論じてくると、末法今時は絶対に下種仏法でなければならないことがわかる。脱益・熟益の仏法は釈迦の二十八品の法華経に結せられ、下種の仏法は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の七文字の法華経である。
日蓮大聖人、観心本尊抄に云く(御書249ページ)
「再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以って詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり、但し彼は脱此れは種なり、彼は一品二半此れは但題目の五字なり」この末法今時の法華経についても、大聖人滅後七百年の今日において混迷をきたしている。それは本尊の迷いからきたものである。この本尊論については後章に、これをのべる。

第四節 五重三段・四重興廃・三重秘伝等

釈迦一代五十年の経教と文底下種の三大秘法とは、五重相対によって明らかであるが、五重三段・四重興廃・三重秘伝等も同じく宗教批判の原理である。

一、五重三段

観心本尊抄(御書248ページ)に説き明かされている。
序文・正宗分・流通分の三段を五重に立て分けられて一切の教法を批判し、文底下種本門こそ末法の正意なりと立てられた法門である。
(一)、一代一経三段  序文・・・・・華厳・阿含・方等・般若
            正宗分・・・・無量義経・法華経・普賢経の十巻
            流通分・・・・涅槃経等

(二)法華一経 十巻 三段 序文・・・無量義経序品
              正宗分・・方便品より分別功徳品の半まで十五品半            
              流通分・・分別功徳品の半より普賢経まで十一品半と一巻

(三)、迹門熟益三段  序文・・・・・無量義経と序品
            正宗分・・・・方便品より人記品まで八品
            流通分・・・・法師品より安楽行品まで五品

(四)、本門脱益三段  序文・・・・・湧出品の半品
            正宗分・・・・寿量品と前後の二半、一品二半
            流通分・・・・その余り

(五)、文底下種三段  序文・・・・・十方三世諸仏の微塵の経経の体外の辺
            正宗分・・・・文底下種の南無妙法蓮華経             
            流通分・・・・十方三世諸仏の微塵の経経の体内の辺

二、四重興廃(しじゅうのこうはい)とは

(一)爾前の大教興(おこ)れば、外道廃(すた)る
(二)迹門の大教興れば、爾前廃る
(三)本門の大教興れば、迹門廃る
(四)観心の大教興れば本門廃る

以上四重の興廃であるが、観心とは天台の教観相対を意味する場合もありただちに文底下種法門とはいえない。しかし日蓮大聖人が引用される場合には五重相対と同趣旨であって観心とは文底下種三大秘法の南無妙法蓮華経である。

三、三重秘伝

開目抄(189ページ)一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知ってしかもいまだひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり。この御文において日寛上人は三重の秘伝と拝すべきことを御示しになり、
一念三千の法門は
  但 法華経・・・・・権実相対(ごんじつそうたい)、第一法門
  但 本門寿量品・・・本迹相対(ほんじゃくそうたい),第二法門
  但 文の底・・・・・種脱相対(しゅだつそうたい)、第三法門
等と仰せあそばされている。これが三重秘伝である。

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