日本の自然風景写真

私が見た、撮った、日本全国の美しい自然を求めて20数年 兵庫県在住 アマチュア写真家 植田

五、金光教

五、金光教

俗に「コンコウサン」といわれ、徳川末期から明治初年にかけて、農民の間にこの信仰が始まった。金光教の開祖は生神金光大神といって、今の金光摂胤(せつたね)が三第目。この三代目相続には、肉親間の醜い争いから、教団内部の、お家騒動が持ち上がり、世間を賑わしたことは有名。「天にまかせよ、地にすがれよ」と説いて天地の恩恵、大地の霊徳にさからうと、金神の障り祟(たた)りがあるといって、無智につけこみ、”金光る金乃神”つまり「天地金乃神」なるものをデッチあげた。この神様は昔からあるもので、宇宙一切をつかさどる有難いもにじゃというのだが、誰もお目にかかったことがない。それもそのはず、神訓に「神は声もなしかたちも見えず、疑ば限りなし恐るべし疑いをされよ」と謎めいたことをいってごまかしている。架空の神を実在の神として祀りあげようとしているのだから恐ろしい。人はみな神様の子というのに、苦しみ悩みはどういうわけかといえば、天地金乃神に無礼致し(因)、前々の巡りあわせで、(推移)、難をうけている、(果)と、妙な因果の法則をたてている。生活を見極めようともしなければ、生命の実態もわからず、普遍妥当性をもつ因果とはまったく別ものだ。金光教の教典にある神誠、神訓、御理解にある教えは、いずれも解りきった道徳論と低劣きわまりない外道の教えとをゴッチャにしたような教義である。欲をはなれれば必ずひらけるというが、人間欲をはなれたらどうなるか、生きる必要もなくなるだろう。上品な信心、布教しない信心を看板にしているが、教会に通っては賽銭の代りに”お鐉米(おせんまい)(米粒)を頂戴して帰る青ざめた人たち。春、秋二回の大祭には、岡山県の本部に、山の幸、海の幸がどっさりと運び込まれる。去る昭和三十四年で、立教百年とさわいでいたが、大正十四年に本部が大火全焼したのは何をものがたるのだろうか、、、、。

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

k.u